弁護士法人フィクショナル・公式ブログ(架空)

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弁護士会に対する違和感とか②

 

弁護士会に対する違和感とか① - 弁護士法人フィクショナル・公式ブログ(架空)の続き)

 

あとは死刑存廃問題。

 

はっきり言って、大半の弁護士はこの問題にさほど関心がない。

 

弁護士のほとんどは、刑事司法のコアな部分には関わっていないし、何より目の前の業務に必死だから。

 

かく言う我輩もそう。

 

死刑存廃問題に関し、「お義理」で総会に出席して思ったのは二つ。

 

まず、第一に「一部の廃止論者が非常にヒステリックだな」ということ。

 

野次なんか飛ばして、見苦しいことこの上ない(もちろん、そんな人はあくまでごく一部なんだけども)。

 

第二に、これがもっと重要で。

廃止論者のほぼ全員に当てはまることだと思うのだが、「応報の観点が完全に欠落している」ということだ。

 

刑罰とは、国家権力による人権制約であり、これを課すには相応の理由が必要だ。

 

現在の通説的な理解によれば、その理由とは、応報と予防である。

 

ごく大雑把な括りで言えば、応報刑論(犯罪者への応報を重視する立場)と目的刑論(犯罪の予防を重視する立場)の考え方だ。

 

我輩の知る限り、純粋・単純な目的刑論を標榜する刑法学者は、現今皆無である。

 

刑罰に応報的側面があること、これを認めざるを得ないことは、共通了解と言って良い(考え方のニュアンスや力点などは、論者によって様々だけども)。

 

しかしながら、死刑廃止論者の弁護士達は、刑罰の応報的側面を不当に軽視・無視しているように、我輩には見える。

 

「自分の家族が殺されたら、犯人を殺してやりたいと思わないのか?」

という素朴な疑問に対し、廃止論者は決して正面から答えない。

 

「感情的には殺してやりたいと思うだろうが、そうした感情論と死刑存廃問題は切り離して考えるべきだ」

などと答えることが多い。

 

まるで答えになっていない。

死刑廃止が応報の要請を満たさないことを自白しているに等しいではないか。

 

「私はあなた達を殺すかもしれない。しかし、あなた達は決して私を殺してはいけない。」

 

死刑を廃止するとは、こうした主張を正面から認めることを意味する。

 

この理不尽さ、不合理さに対し、死刑廃止論者達は説得的に反論しなければならないだろう。

 

法律を使うのは人間だ。

人間は理屈だけで行動する生き物ではない。

人間には感情がある。

 

その感情(ノイジーマイノリティ的なクレームなどではなく、至極真っ当な感情)を無視して、死刑廃止が実現するはずなどない。

 

(なお、我輩は決してゴリゴリの死刑賛成論者というわけではない。立場を決めかねている。冤罪の問題も無視できないからだ。死刑賛成論者は「もし自分や家族が冤罪で死刑になったらどう思う?」と自問してみるべきだろう。)