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超LGBT論:第3回「性別フィクション論」

不定期連載として「超LGBT論」をアップする。

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前回(第2回)に続き、性別にまつわる議論・見解を取り上げ、今後の社会の在り方・行く末について考察していく。
第3回は「性別フィクション論」である。

 

・性別フィクション論の到来
性別二元論と性別グラデーション論のいずれによっても、性にまつわる我々人間の実態を適切に説明することはできない。
「人間は男女に明確に区分けされる」という考え方(性別二元論)は誤りであり、他方、「人間の性別は明確に区分けされるものではなく、グラデーションになっている」という考え方(性別グラデーション論)も、どうやら誤りである(詳しくは前回、前々回を参照のこと)。
では、人間の性別というものについてどのように考えるべきなのだろうか。
ここで登場するのが、性別フィクション論である。
性別フィクション論とは、一般的に普及している呼称ではない。
現在通説扱いされている性別グラデーション論が早晩廃れ、近い未来に提唱されるだろう見解(私が勝手に仮想的・予言的に定立した主張)である。

・性別フィクション論の主張
性別フィクション論の主張は「男性や女性という概念は、ある種の擬制(フィクション)でしかない」というものである。

たしかに、個々人の身体機構(性染色体や性器等)には厳然たる差異が存在する。
しかし、そうした身体機構の違いとは異なり、「男性的・男性性」なるものや「女性的・女性性」なるものは、時代や地域等によってイメージの異なる概念である。

例えば、ある時代・社会においては、リスクを恐れない向こう見ずな性質であったり、家庭を顧みずバリバリと超長時間労働をこなして大金を稼ぐであるとか、強欲・酒豪・好色で暴力的な性質こそが「男性的・男性性」と評されることもあるだろう。
他方で、また別のある時代・社会においては、リスクを明晰に分析・判断する強かさであったり、仕事は程々に早々帰宅し、家事と育児に勤しみ、妻子を慈しむような人間的成熟性であるとか、酒にもギャンブルにも女にも手を出さず自己鍛錬に励むようなストイックな性分こそが、むしろ「男性的・男性性」と評する向きもあるだろう。

「女性的・女性性」についても同じことがいえる。
女性に関するステレオタイプ(偏見)一つとってみても、「しとやかで抑制の効いた慎ましい」性質を「女性的・女性性」とすることもあれば、「ヒステリックで論理的一貫性に乏しく口喧しい」性質を「女性的・女性性」とすることもある。

このように、全く異なる(事によっては正反対の)性質のいずれもが「男性的・男性性(女性的・女性性)」と同じく評価されることがあり得るのだ。

「男性的・男性性」とか「女性的・女性性」というものは、何らかの定まった実体を伴う概念ではないということができる。

そうであるならば、「男性的・男性性」であるとか「女性的・女性性」という区分けは、各時代や地域等における生殖活動やその他社会生活上の要請から便宜上作り出された単なる「言葉」でしかない(その時その場に都合の良い形で「男性的」とか「女性的」という言葉が使われてきた)といえそうだ。

特に、個々人の価値観が多様化し、流動的かつ複雑に発展した現代の社会においては、「男性的」であるとか「女性的」という概念について、どのように理解すべきかという考え方は、これまでに増して相対化してきている(人によって考え方がまるで異なる)。

男性だからといって「マッチョで高収入」じゃなくたって良いし、女性だからといって「美しくて家事育児上手」じゃなくたって良い。

色んな生き方や家族の在り方等が認められている。

個々の身体機構の違いというものは相変わらず厳然として存在するが、どういう場合が「男性的」あるいは「女性的」という区分け(言葉遊び)にはもはや意味がないというべきだ。

この考え方によれば、身体の性、性自認性的指向、表現の性のいずれにおいても、性別の両極もグラデーションも一切考慮されない。

あるのは個々人の性染色体や性器等の身体機構の違いという客観的事実だけである(第1回で紹介したとおり、生物学上も男女の境界は明確ではない。そうである以上、身体機構の違いについて「男」とか「女」と区分けすることの正当性も、必ずしも自明ではない。)。

「男性的・男性性」なるものや「女性的・女性性」なるものが定義できない、あるいは、時代や地域・場面等によって定義が異なるとすれば、こう考えるのが素直に思える。

何しろ、この広い世界には、自分のことを男とも女とも中性とも考えない人(無性のノンバイナリー)や、果ては男女のどちらに対しても性的興味がなく、動植物や無生物に惚れることを自称するような人々まで存在するのだから。
「男性」とか「女性」という概念は自明のものではないと考えざるを得ない。

・性別フィクション論の問題点
この考え方を実社会に素直に適用すると、非常に困ったことになる。
あらゆる書類上の性別記載欄はおろか、トイレ・更衣室・公衆浴場の区切りも女性専用車両も、何もかもなくしてしまおうということになるだろう。
スポーツ等においても、男女の区分けはなくなり、(生物学上典型的なタイプの)女性の競技者が活躍・上位入賞する機会はなくなってしまうだろう。
また、良し悪しはさておき、国会議員や会社役員等のクオータ制(一定割合は必ず女性を登用するという制度)も廃止されるだろう。
「男女」という言葉による区分が引き続き有効であり得るのは、生殖活動を行うための「マッチング」の局面くらいになるだろう。

ただ、こうした事態は、何も性別フィクション論に限った問題ではない。
現在の通説である性別グラデーション論の論理的帰結としても、これらの事態が引き起こされることは十分にあり得る(全くもって恐ろしいことだが)。

性別フィクション論の主張は、性別グラデーション論の主張をもさらに超えてくる。
動植物や無生物との婚姻についても、「平等」という錦の御旗の下、通常の婚姻と同等の法的利益・権利を提供すべきということにもなりかねない。

過激派がさらに行き着く先は、男女だけでなく、人間・動植物・無生物の境界すらなくしてしまおう、人間も動植物も無生物も皆平等だという考え方だ。
これぞまさに急進的な環境保護論者やヴィーガン等(≒テロリスト)の主張である。
このような「似非哲学」の行き着く先は、思考停止の極端な相対主義に他ならない。
人間の理性・感性によって世界の事象を分節化(区別)し秩序を築くという営みの放棄であり、その先に待ち受けるのは人間社会の「破滅」と「混沌」でしかない。
何らの秩序もない分、超保守派者や差別主義者の理想とする分断社会よりもずっと質が悪い。

性別フィクション論は、理屈の上では正しいのかもしれない。
しかし、この考え方は(性別グラデーション論も実はそうなのだが)、我々が直面する様々な社会問題に対して、実用的な知恵・解決策は何も提示してくれない。
それどころか、人間社会に大いなる混乱と不和を招くおそれすらある。
性別フィクション論や性別グラデーション論の主張は、多数派(典型的なタイプの男性や女性)の生理的・自然な感覚を、理屈の力で押さえ込む「暴力」であるとすらいえる。
旧共産圏の独裁国家のような発想であり、到底受け入れられる思想ではない。

・議論の行く末
性別フィクション論は、人間の性にまつわる議論の極北・袋小路とでもいうべき見解だ。
この見解を採用できないとなると、我々は今一度、辿ってきた道を引き返すべきなのだろうか。
しかし、引き返したところで何も実りはない。
辿ってきた道のスタート地点には性別二元論がある。
今や懐かしい単純素朴な人間観である。
しかし、明白な誤りがある以上、もはやこの見解に立ち返ることはできない(第1回)。
議論の道すがらには、ニュアンスの異なる様々な性別グラデーション論が鎮座まします。
リベラルを自称する人達は、この非科学的な見解に対して妙に自信があるようだ。
しかし、どうやらこれらの見解も論理的に無理がある(第2回)。

はてさてどうしたものか。
人間の性にまつわる議論は、ここにきて暗礁に乗り上げてしまったように思える。

第4回へ続く

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