弁護士法人フィクショナル・公式ブログ(架空)

架空の国の架空の弁護士によるブログ

晩年のストラヴィンスキーも好きー

 

晩年のストラヴィンスキーって、あんまり評価されてないっぽい。

 

初期の三大バレエが好きな一般愛好家はもちろんのこと、作曲家や演奏家等のプロからの評価も低いような気がする。

 

「ぽい」とか「気がする」というのは、明確に統計とか数字で指摘できないので、あくまで感想レベルの話ということで。

CDのリリース数やコンサートで取り上げられる頻度、関連書籍や論文の数やなんかで分かるだろうし、異論も無いと思うけども。

 

彼の晩年(第二次大戦後〜1971年頃)、ヨーロッパは前衛音楽の最盛期ど真ん中であり、アメリカでもケージら実験音楽を提唱する連中が現れていた。

 

時代背景を考えると、たしかに、この時期にストラヴィンスキーが残した諸作品は、同時代気鋭の作曲家達が残した諸作品に比べると、いささか斬新さに欠けることは否めない。

 

ストラヴィンスキーは「カンティクム・サクルム」(1955年)で初めて十二音技法を取り入れている。

 

しかし、この頃既に、ブーレーズが「2台のピアノのための『ストリクチュール第1巻』」(1952年)で十二音技法を発展させた総音列技法を使用している。

さらには、この総音列技法を柔軟な形で応用した「ル・マルトー・サン・メートル」(1955年)まで発表している(当時かなりのセンセーションを巻き起こしたらしい)。

 

また、アメリカのケージも、師匠シェーンベルクの音列技法の影響を脱し、偶然性の音楽である「易の音楽」(1951年)や、演奏家が一切音を奏でない「4分33秒」(1952年)を発表するなど、かなりインパクトの強い実験を繰り広げている。

 

彼ら新世代の作曲家達と比べると、前衛性や新奇性という点で、ストラヴィンスキーは後塵を拝するものと言わざるを得ないだろう。

 

しかも、彼はそれまで新古典主義の筆頭格であり、音列技法を提唱するシェーンベルクとは犬猿の仲であった。

それなのに、シェーンベルク新ウィーン楽派が三人とも亡くなるや、途端に十二音技法を使い始めたのだ。

「節操がない」「今更かよ」などと批判されてもなむなしである。

 

おそらくこの辺りの事情から、晩年のストラヴィンスキーに対するプロや玄人筋の評価は芳しくない。

 

もちろん、一般愛好家の心に訴えかけるだけのキャッチーさやパワーがあれば、それはそれで高い評価を得るという途も十分にあり得よう。

時代背景や楽壇の勢力図など気にする必要もない。

 

しかしながら、晩年の彼は、一般聴衆が求める「彼」ではなかった。

 

春の祭典」で聴衆を熱狂の坩堝へと引きずり込んだ「彼」は、そこにはいない。

かつて見せてくれたスペクタクルを期待すると、とんだ肩透かしを食らうことになる(小僧の時分、「春の祭典」の虜となった我輩は、何も知らずに、彼の自作自演集のCDを購入し、期待に胸膨らませながら、スピーカーの再生スイッチを押した。聴き始めて早々、しばし呆気に取られてしまったことを昨日のことのようによく覚えている。)。

 

貧相なまでに切り詰められた編成、潤いもなく色彩感の乏しい音響。

どこが山場なのか、主題となるメロディは何なのか(十二音技法の場合、メロディではなく音列と呼ぶべきだが)もよく分からない。

ボーッと聴いているうちに、気づいたらどうやら終わっている。

 

・・・これでは一般愛好家の熱心な支持など得られようはずがない。

 

そんなわけで、晩年のストラヴィンスキーは、プロからも聴衆からも、どうやら評判がよろしくない。

 

・・・しかしだ。

 

今日では、前衛音楽も実験音楽もとっくに下火となっている。

進歩史観的な芸術観が相対化されて(「まだ誰も作ったことのない斬新な音楽を作るべきだ」、「新しい音楽を生み出す人こそが偉いんだ」などという強迫観念がなくなって)久しい。

 

また、一般愛好家も、配信サービスの充実等により、歴史的文脈に囚われず縦横無尽に、各時代・地域・様式の音楽に触れられるようになった。

たいていの作品に対し、正面からまともに衝撃を食らうことなく、「まぁこういう音楽もあるよね」と落ち着いて受け止めるだけの免疫は備わっている(良くも悪くも)。

 

だからこそ、今の時代に生きる我々は、ストラヴィンスキーが生きていた当時の人々に比べれば、ずっと冷静に、虚心坦懐に、彼の音楽に耳を傾けることができる状況にあると思う。

 

長々と書いたけど、言いたかったことっていうのは、要するに「やっぱり晩年のストラヴィンスキーもええで」ってこと。

 

最晩年の「レクイエムカンティクルス」とか「ふくろうと猫」とか。

ほんと枯淡の境地って感じだ(特に「ふくろうと猫」なんて、まるで小さな子供が気の向くままにピアノを弾いて作ったみたいな、骨と皮しかないようなシンプルな音楽だ。譜面は見たことないが、リズムにさえ注意すれば、素人でも簡単に演奏できる作品だろう。)

 

まさしく「大楽必易」の精神であろう。

 

モノクロな音響による、パサっと乾いた、冷たくて透明な質感が、日によっては聴いてて心に沁みてくる。

鳥肌が立つとか、熱狂するとか、泣けるとか、そういう類の感動は一切ない。

ただただ、聴き手にすっと寄り添ってくる、そんな音楽だ。