弁護士法人フィクショナル・公式ブログ(架空)

架空の国の架空の弁護士によるブログ

クラシックの「恐怖音楽」総論

西洋芸術音楽においては「恐怖」という感情が軽んじられてきた。

 

たしかに、バロック音楽やロマン派音楽においても、感情表現ということに力点は置かれていた。

しかし、バロック音楽において、感情表現は「悲しみを表すときはこんな音型」、「不吉さを表すときはこの奏法」といった、図式的・お約束的なものにとどまっている。感情の個別性は重要ではなかった。

また、ロマン派音楽において重視されていたのは、いわゆる「生の感情」ではなく、もっと「意識的な感情」の表現である。夢、理想、愛や喜怒哀楽を、知的に物語として思考し再構成した感情(意識的な感情)の表現に重きが置かれたのである(このことは、ロマン派音楽の持つ標題性や文学との強い結びつきにも見て取れるとおりである)。

 

音楽史的に見れば、ロマン派音楽には、それまでの古典派音楽形式主義・理性偏重に対するアンチテーゼとして登場したという側面がある。

しかし、現代の視点から両者を俯瞰的に見るならば、ロマン派音楽においても、古典主義の影響は濃厚であったというべきだ。

ロマン派音楽において重視されたのは「意識的な感情」の表現であり、このことは、とりもなおさず、理性・言語を通して思考・再構築した結果としての表現行為に重きが置かれたということに他ならないからである。

 

こうした再構築を経ないもっとドロドロとした原初的な感情にフォーカスしたのが、20世紀初頭の表現主義音楽だといってよい。

そこでは不安、恐怖、怒りといった「生の感情」(理性・言語による再構築・意識化を経ない原初的な感情)の表現が重視された。

音楽史において初めて「恐怖」それ自体がクローズアップされた瞬間、作曲家達がようやく「恐怖」そのものと向き合った瞬間といえるだろう。

世紀末の退廃的なムードであったり、西洋没落を招く第一次世界大戦が間近に迫る等、そうした不穏な空気感やなんかが、当時の作曲家達のインスピレーションを強く刺激したのかもしれない。

 

しかし、20世紀初頭に現れた表現主義音楽は、早々に袋小路に行き当たってしまう。

理性による再構築を経ない「生の感情」を、音楽という「構造物」として構成すること自体に、自己矛盾・困難を抱えていたということだろう。

その後の音列主義や新古典主義に端を発する様々な表現システムの構築(あるいは脱構築)がことごとく失敗した(聴衆の支持を失っていった)ことは、音楽史上の「悲劇」として散々指摘されているとおりである。

 

こうした音楽史のダイナミズムのもと現れた一部の「恐怖音楽」には、単なる「音楽史上の失敗」として切り捨てることのできない迫真性がある。

これら「恐怖音楽」の背後にある「人間の理性・感性に対する不信感」には、ある種の真実味があるからだ。

 

人間の理性・感性の限界は、20世紀になって嫌というほど明らかにされていった。

素朴実在論(「世界は私がこの目で見ているとおりの形で存在しているはずだ」という世界観)を完膚なきまでに叩きのめした量子力学の登場。

決定論力学系においてさえも予測不能な領域(計算式は分かっていても絶対に答えを出せない領域)が存在することを明らかにしたカオス理論。

論理実証主義等の敗北により浮き彫りとなった学問全般に対する不信(学究により真理に到達することの不可能性)。

民主主義の限界・矛盾を明らかにしたアローの不可能性定理。

ナチズムや共産主義が招いた数多の惨劇。

資本主義社会における人間疎外の加速。

今なお終わらぬ大量虐殺・テロリズムの脅威……。

激動の20世紀は、人間の理性・感性、ヒューマニズムが敗北した歴史だったのである。

 

そんな時代にあって、因習的なハーモニーやサウンド(綺麗事)では表現できないもの、耳障りな不協和音や特殊奏法による新たな表現が希求されたのは、あまりに当然のことと言えるだろう。

疎外された人間の苦悶、不安、恐怖といったものが、本当の意味でフォーカスされていった(表面的な演出などではなく、重要な関心事とされた)ことは、一つの大きな遺産である。

 

しかしながら、前述のとおり、結局これら「恐怖音楽」をはじめとする所謂現代音楽が聴衆に受け入れられることはなかった。

人間の理性・感性に対して芸術家達が提示したアンチテーゼは、「答え」として受け入れられなかったのである。

皮肉なことに、「普遍的な美」を標榜する芸術という概念それ自体の胡散臭さ・相対性というものが、20世紀の一連の芸術それ自体によって証明されてしまったのだ。理性・感性の敗北を糾弾するはずの芸術それ自身が、まさに芸術の敗北・解体を体現してしまったのである。

 

とはいえ、21世紀に生きる我々が、人間の理性・感性の限界・敗北という問題を乗り越えたわけではないし、何らの解決も得られたわけではない。

現代においては、理性も感性も(あるいは「芸術」も)、真理・善・美といった「高邁な理想」を探求する手段などではない。

それどころか、当面の快楽・利益を追求・実現するための「その場しのぎのツール」として利用されているにすぎないとさえいえよう。

19世紀ロマン主義における夢や理想は、刹那的な刺激や享楽へと姿形を変え、21世紀に至って尚、ある種の呪詛のように私達にまとわりついているのである(耳に心地よい19世紀流の調性音楽が、20世紀後半以降、装いを新たにポップミュージックとして世界を席巻しているのは象徴的な事象である)。

 

こんな時代にあって、未だに西洋芸術音楽史上の「恐怖音楽」を愛好する「痴れ者」というのは、頭でっかちの主知主義者などではない。

むしろ、人間の理性・感性などろくに信用せず、音楽が持つ(持っていた)ある種の呪術性・魔術性を最後まで信奉し、渇望する者なのである。

 

世界は分けても分からない。

しかし、世界が我々の手に負えるシロモノでないこと、珍妙奇天烈・摩訶不思議、奇想天外・四捨五入…もとい神秘・奇跡とでもいうべきこと自体は、どうやら間違いなさそうだ。

 

「恐怖音楽」は、そんな世界の内奥にちょっとばかり触れる「疑似体験」とでもいえるかもしれない。

 

さぁ、豊穣なる「恐怖音楽」の世界に足を踏み入れよう……!!