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「知能」とは何か?

 

目的論的に定義するならば、「知能」とは、幸福に生きるための意思決定を行う能力ということができる。

 

幸福が何を意味するかは、当人の価値観によって決まる。

 

しかしながら、何が自分の幸福なのかを理解している人は多くはない。

 

というより、私を含め、殆どの人が「あなたにとっての幸福とは何ですか?」と質問されても、明快に回答することはできないだろう。

 

幸福とは、一般論としてだけでなく、当人の価値観というレベルにおいても、明確に定義することができない概念なのである。

 

その意味で、幸福に生きることとは、知性・理性により明晰に判断・実現できるものではなく、感性・直感の側面も多分に関係するものと言わざるを得ない。

 

「知能」について考察するにあたっては、(一般的な意味で知能としてイメージされるところの)知識量・推論能力・メタ認知能力といった側面だけでなく、感性・直感の側面も無視できないということになる。

 

幸福に生きるとは、明確に定義・言語化できない目標に向けた意思決定を続けることに他ならない。

 

しかし、幸福が何かは言語化できずとも、幸福に至るための中間目的やその達成手段については、言語化が可能なこともある(ごくありふれた例でいえば「資産を形成する」「結婚する」「健康を維持する」といったものだ)。

 

最終目標たる幸福の達成にあたっては、複数の中間目的を縦横に設定し、それら中間目的を達成する手段を選択・実行することになる。

 

幸福に生きることとは、感性・直感により、幸福に至るための中間目的を設定し、知識・推論能力・メタ認知能力により、中間目的を達成する手段を選択・実行していくことを意味する(実際のところは、中間目的と手段の境界は非常に曖昧ではある。ある中間目的は、その先にある中間目的との関係では手段として位置付けることもできるからだ。その意味で、実のところ、知能を構成する諸能力の使い分けもまた非常に曖昧ではある。)。

 

ところで、知識・推論能力と感性・直感は、相互に影響し合う関係にある。

 

感性・直感は、当人が培ってきた知識・推論傾向の影響を多分に受ける(「ある音楽や絵画に触れたとき、当人がどういった感情を抱くか」という問題を考えれば事は明らかだ)。

 

知識・推論能力もまた同様に感性・直感からの影響を受ける。

我々は「見たいものを見る」、「聞きたいものを聞く」性(さが)に囚われているからだ。

 

こうした相互(悪)影響の問題点を解消し、知能のシステムを健全に保つためには、メタ認知能力を十分に活用することが肝要となる。

 

メタ認知能力によって、自身の知識・推論傾向・好み(感性・直感の発露)の偏りを認識・分析し、改善を試みることができるからだ。

 

詰まるところ、幸福に生きるとは、メタ認知能力を活用すること、すなわち「己を知る」という試みを愚直に続ける営みに他ならない。