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理系による文系叩きについて

・お断り

この日記は、いわゆる「対立煽り」ではない。

単なる興味本位から、あれこれ考察を記載するにすぎない。

文系叩きに迎合するとか、反発するであるとか、そういう目的はない。

 

・理系と文系の定義

「理系」

大学又は大学院において、形式科学、自然科学又は応用科学を研究する学部・学科に在籍した経験がある人。

 

「文系」

理系以外の人。

 

・理系による文系叩きの概略

文系には

①「論理的思考が不得手」

②「まともに学問に励んだことがない」

③「能力に見合わぬ高い社会的地位・収入を得ている」

という傾向がある。

(私が見聞きする限り、理系による文系叩きの概略はこんな感じだ。)

 

①「論理的思考が不得手」

文系が「論理的思考が不得手」な根拠として大抵指摘されるのは「数学の能力の低さ」である。

この文脈における「数学の能力」とは、「名門大学の入試で課される数学の試験で合格点をとる能力」をいうことが多い。

文系が理系に比べてこの「能力」がない(低い)傾向にあることは異論がないだろう。

 

しかし、この「能力」がない人達には、本当に「論理的思考が不得手」という傾向があるのだろうか。

 

大学入試対策に必要なのは、知識や解法パターン等の「武器」を暗記し、問題演習を重ねることで、「武器」を使う感覚を研ぎ澄ますことだ。

多くの高校生は、大学入試対策として、こうした「武器」を使う「手癖」なり「反射神経」を養っているといえる(数学であれ英語であれ、概ね共通したスタンスだと思う)。

 

私が思うに、大学入試レベルで要求されるのは、この「手癖」なり「反射神経」の鍛錬であって、高度な論理的思考力などではない。

文系・理系を問わず、大学レベル以上の学問に真面目に取り組んだ経験があるならば、何となく実感としてお分かりいただけるのではないかと思う。

 

例えば、高校時代までは「数学の天才」を自認していた学生が、大学の数学科に進学するも、そのギャップに嘆き挫折するという話はよく耳にする。

大学の数学科では、定義・定理・証明に関する厳密な講義がひたすら続く。

ここで求められる能力は、計算力やひらめきなどではなく、概念と論理を理解する力(論理的思考力)である。

「手癖」なり「反射神経」に自信のあった「数学の天才」も、入学早々その鼻っ柱を折られてしまうというのは、こうしたところに理由があるらしい。

 

「名門大学の入試で課される数学の試験で合格点をとる能力」とは、論理的思考力などではなく、地道な問題演習を通じて身に着けられる高度な「手癖」なり「反射神経」でしかない。

この「能力」がないことは、「論理的思考が不得手」であることを必ずしも意味しない。

単に「手癖」なり「反射神経」の修練が足りないことを意味するにとどまる。

 

②「まともに学問に励んだことがない」

もちろん、文系であっても、真面目に勉強している学生も大勢いる。

あくまで傾向の話だ。

これはほぼ異論がないだろう。

理系学部の単位取得の難易度に比べ、文系学部の単位取得はかなり容易な傾向がある。

私の学生時代には「楽単(らくたん)」という言葉があった。

「楽に単位がもらえる講義」のことだ。

当時、「楽単」についてこんなことが言われていた。

理系学部の「楽単」は、講義に出席しさえすれば単位がもらえる。

文系学部の「楽単」は、講義に出席しなくても単位がもらえる・・・。

この点に関し、文系は叩かれても仕方ないだろう。

 

③「能力に見合わぬ高い社会的地位・収入を得ている」

この点は何とも言えない(仮に事実だったとしても「だったら貴方も同じことすればいいじゃないですか」という話でしかない)。

 

ただ、これには異論もあって「実は理系の方が文系よりも平均収入が上だ」という話もある。

他方で、大企業の役員クラスや政治家など、ハイソ・超高給取りには(理系全体より文系全体の方が人数が多いという点を考慮しても尚)文系が多いとも言われる。

 

こうした状況を踏まえてか、将棋の駒に喩えてこんなことを言う人もいる。

 

理系:飛車、角行、桂馬、香車

文系:王将、金将銀将、歩兵

 

言い得て妙だ。

 

将来の進路との兼ね合いで考えると、「技能を習得してそこそこの収入を確実に稼ぐ」という意味で、理系学部に進学するのは手堅い選択と言えるかもしれない。

 

文系に関しては、不動産会社や生命保険会社の「脳筋文系」が、類まれな営業センスと胆力でもって、とてつもない高級取りになる現象など、まさに「歩の成金」といえるだろう。

 

他方、大企業の役員クラスや政治家に「エリート文系」が多いのは、文系学問の性質も影響しているのかもしれない。

 

非常に大雑把な私なりの理解でいえば、理系学問で身に着くのは「事実は何なのか(を探る力)」である(「真理」とか「真実」という表現は敢えて控える)。

他方、文系学問で身に着くのは「人間や社会はどこへ向かうべきか(を探る力)」である。

 

こうした文系的な大局観や人間観といったマクロな物の見方は、国なり会社なりの「舵取り」に不可欠の素養である。

理系学問によってもたらされた「道具」や「知恵」も、使い方が分からなければ、正しく活かすことができないのだ。

 

こうして考えてみると、文系・理系と峻別してあれこれ物事を考えるのはやっぱり馬鹿らしい気がしてくる。

「事実は何なのか(を探る力)」も「人間や社会はどこへ向かうべきか(を探る力)」も、どちらも当然重要であり、いわば車の両輪である。