弁護士法人フィクショナル・公式ブログ(架空)

架空の国の架空の弁護士によるブログ

圧倒的な才能の割に・・・

 

私のことじゃありません。

以下、思いつくままに。

 

学術部門

ウィリアム・ジェイムズ・サイディズ

とてつもないスペックの持ち主でありながら、何らの学術的業績も残していない。「ショボい大天才」の筆頭と言っても過言ではない。

以下はWikiからの引用。

・生後6か月にして、スプーンを使用して自ら食事を摂ろうとしはじめた。そして2か月後には成功した。
父におだてられると、自分が入っている揺りかごに書いてあったアルファベットの音節を発音できるようになった。
・生後6か月で「ドア」と言った。2か月後、母に向かって、ドアと人々、動くものが好きだと言った。
・生後7か月で、月を指さして「月」と言った。そして自分だけの月を欲しがった。
・1歳で綴り方を覚えた。
・3歳でタイピングを憶えた。タイプライターに手が届くよう高い椅子を使った。初めてタイプしたのは、百貨店に玩具の注文を出す手紙だった。
・4歳の時には、誕生日の贈り物として、父からラテン語版のガリア戦記を贈ってもらい、読みこなした。
・4歳の時にはホメロスを原書で読んだ。
・6歳の時には、アリストテレスの論理学を修得した。
・6歳の時、ロシア語、フランス語、ドイツ語、ヘブライ語を修得。さらにトルコ語アルメニア語も修得した。
・6歳の時には、歴史上のいかなる日付でも曜日を計算し、当てることができた。
・6歳でグレイの解剖学を修めた。大学レベルの数学の試験で合格点を取った。
・6歳でグラマースクールに通い始めた。あまりに上達が速いので、3日で3年生に進級。7か月で卒業した。
・8歳の時、数学の力で父を追い越した。
・8歳の時、E・V・ハンティントンが書いた数学の教科書のゲラを校正した。
・4歳から8歳までの間に、4冊の本を執筆した。解剖学と天文学の本も書いたが、紛失し、現存していない。
・7歳の時、ハーバード大学医学部の解剖学の試験に合格した。
・8歳の時、MITの入試に合格した。
全米最高の中等学校の教師たちよりも勉強がよくできた。
・10歳の時、ハーバード大学の論理学教授ジョサイア・ロイスの原稿を「段落がおかしい」と言って訂正した。
・11歳の時、高等数学と天体の運動を修得。

 

ジョン・フォン・ノイマン

数学・物理学・工学・計算機科学・経済学・ゲーム理論・気象学・心理学・政治学と多岐にわたり活躍。

アインシュタインハイゼンベルクら大天才達からは「一番の天才」と評されるほどの頭脳の持ち主である。

しかしながら、残した業績という点で言えば、ゲーデルアインシュタインチューリングケインズ等、その道の超大家達には到底及ばない。はっきり言ってショボい。

ノイマン型コンピュータ開発に大いに貢献したという話も、今となっては甚だ疑問である。

以下はWikiからの引用。

その驚異的な計算能力と映像記憶力、特異な思考様式、極めて広い活躍領域から「悪魔の頭脳」「火星人」「1,000分の1インチの精度で噛み合う歯車を持った完璧な機械」と評された。
圧倒的な計算能力については数々の逸話が残っている。子供の頃、電話帳の適当に開いたページをさっと眺めて、番号の総和を言って遊んでいた。
八桁と八桁のかけ算及び割り算を暗算で行う。
座ってぶつぶつ独り言を言いながら放心したように天井を見つめて暗算し、数分間目を泳がせた後おもむろに口を開き、それを解くことは不可能だと主張する研究者の目の前でスラスラと問題を解いてみせた。
頭にめぼしい定数や方程式をどっさり覚えていて、それらを総動員して電光石火で問題を解き、他人の着想をみるみる膨らませていった。「誰かが一つ提案しようものなら、ひっつかんで、あっという間に五ブロック先まで行ってしまう」、「自転車で特急を追いかける気分でした」と言わしめた。
プリンストンの高等研究所内に完成したコンピュータの性能をテストする為に適当な問題をやらせてみることにした。答え合わせの正しい解答が必要だったので、そこで即席の力くらべとしてフォン・ノイマンが機械と競争することになった。当時のこのコンピュータは1秒間にわずか乗算2000回の処理能力しかなかったとはいえ、先に答えを出したのはフォン・ノイマンだった。
コンピュータ・プログラム(50行のアセンブリ言語)を頭の中で作成したり修正したりする。
ロスアラモスにて科学者たちからいわゆる御神託と目されていたフォン・ノイマンとエンリコ・フェルミだが、ある時二人は流体力学に関してちょっと変わった競争形式の議論を行っていて、それはめいめいが問題となっている事柄を一番速く解こうとするものであった。しかしフォン・ノイマンの稲妻のような分析能力に太刀打ちできる者はやはりなく、彼が常に勝ちを収め、かの天才フェルミであってもそれは例外ではなかった。
さる抜群の実験物理学者とエミリオ・セグレが、ある積分によって定まる問題のことで悪戦苦闘していたところ、部屋の開きっ放しになったドアからフォン・ノイマンが廊下を歩いてくるのが見えた。二人が助けを求めると彼はドアのところまで来て黒板をチラリと眺め、その場でいきなり答えを書き取らせて彼らを仰天させた。このような例が1ダースではきかなかったという。
語学にも非常に優れていた。幼少期に家庭教師たちに仕込まれたドイツ語、英語、フランス語、イタリア語の他、父マックスとギムナジウムの授業からラテン語ギリシャ語を身につけ、こうして母語ハンガリー語と合わせて7つの言語を扱うことが出来た。また、これらの内のどの言語で話しても、一つの言語しか話せない人よりも速く話せたと言われている。
3ヵ国語で同時にジョークや猥談を行う。
しかし、手紙の英語のスペルはよく間違えていた。
たびたびドイツ語の語句に対応する英語の語句を尋ねていたようで、アメリカ移住後もアイデアはドイツ語で思い付き、それを英語に素早く翻訳していたようである。
オンケンの『世界史』全44巻を読み終え、10歳にして、現在の出来事と歴史上の出来事との間の類似点を指摘したり、両者を軍事戦略や政治戦略の理論と関連付けて論じることが出来た。
ある時、ハーマン・ゴールドスタインがフォン・ノイマンの能力を試してみようと、ディケンズの『二都物語』の冒頭部分を言ってみてくれと頼んだところ、一瞬もためらうことなく第一章を暗唱し始め、もういいと言うまで10分か15分間暗唱し続けた。

 

マリリン・ボス・サバント

IQのギネス記録保持者。コラムニスト、作家等として活躍するも、これといった偉業を達成したわけではない。

 

音楽部門

ロリン・マゼール

史上最も才能に恵まれた指揮者で、超人的な耳の良さと記憶力を誇った。8歳でプロ指揮者デビュー。

どんなに複雑なオーケストラスコアであっても、立ち所に記憶してしまい、100人以上からなるオーケストラ団員の僅かなミスやピッチのズレ、奏法・表現ニュアンスの誤り等を寸分違わず指摘してみせたという。

しかし、残した演奏・録音は……。

こんなことまで書かれちゃう始末だ。

追悼 ロリン・マゼール ~才能の乱反射 器用貧乏が徒となったディスコグラフィー~ | Mikiki

 

ダニエル・バレンボイム

マゼールと同じく滅茶苦茶才能に恵まれた音楽家。才能はマゼールと並んでピカイチだ。存命の音楽家の中で一番耳が良いとすら言われている。

しかしながら、ピアニストとしても、指揮者としても、あれほど憧れた「伝説の巨匠」になることはとうとうできなかった。

 

ヴァン・クライバーン

ポテンシャル最強のピアニスト。

弱冠23歳にして、冷戦下の旧ソ連で開かれた第一回チャイコフスキー国際ピアノコンクールにアメリカ人として出場し、審査員の満場一致で見事優勝。

しかし、その直後から、興行主に引きずり回される超多忙なコンサート生活の中で、自己研鑽・楽曲研究を深めることができず、消耗し切ってしまった悲劇の天才。

残した録音は……。

同じく大天才のポリーニが、一時期、一切の演奏活動を止めて隠遁・修行生活に入り、独自の道を歩んでいったのと対照的だ。

 

法・政治部門

田中耕太郎

東京帝国大学法学部長、第1次吉田内閣文部大臣、第2代最高裁判所長官国際司法裁判所判事を歴任。

肩書はまごうことなき「超絶リア充」である(死語)。

しかし、法律実務家としては、はっきり言って「ゴミクズ」である。

砂川事件では、司法の独立を捨て去り、実質的な裁判当事者であったアメリカに裁判の合議状況の秘密をもらしたうえ、その指示どおりに判決を書きあげるという悪行も辞さなかった。

松川事件での一連の言動等、体制迎合的・強権的・人権軽視の態度は悪名高い。
彼が最高裁長官を務めたことは、日本の戦後司法「最大の汚点」と言っても過言ではない。

彼が遺したものに、有用な法理論や制度等の「正の遺産」は何もない。

 

宮澤喜一

戦後の首相の中で最も頭が良かったと言われる。

しかし、田中角栄は「あれは秘書の器だ」と見抜いていた。

首相としての功績はウンコレベルである。

 

藤木英雄

この並びに出すのは実に忍びないのだが…。

東大法学部首席、司法試験1位で一発合格、国一1位で一発合格のトリプルクラウンを達成。

団藤重光の弟子であり、行為無価値論に立つ刑法学者として活躍。

しかしながら、師匠の団藤と異なり、彼の学説は、実務に大した影響を及ぼしていない。

また、東大では、行為無価値の系譜は彼で途絶えており、以後現在に至るまで結果無価値が幅を利かせている。

法学者として歴代最高クラスの頭脳を持ちながら、実務でも学会でも、大きな影響・実績を残すことはできなかった(天才はそもそも法学・法律実務の分野に来るべきじゃない。この問題については、気が向いた時にでもまた。)。

 

以上、才能も業績も、知名度も人望も、全て足元にも及ばない、地ベタリアンの戯言でした。