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春の祭典【ワシの好きな曲】

弁護士の団堂八蜜です。

 

ジブリつながりで、最近、久石譲の音楽を聴き返しています。

ジブリ作品の劇伴を担当している方ですね。

 

で、Apple Music久石譲を調べてビックリ。

 

春の祭典録音してんじゃん!

 

‎久石譲/東京交響楽団の「ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」」をApple Musicで

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おったまげた!!

 

この人、クラシック音楽の指揮者として、ベートーヴェン交響曲やなんかを演奏・録音してるんですよね、地味に(失礼)。

 

以前聴いたときは

「へぇ、なかなか面白い演奏するじゃん」

なんて思っていたんですが(何様)

 

まさか、あの難曲「春の祭典まで指揮してしまうとは!

 

しかも結構うまい。

 

これライブで聴いたら興奮しただろうなぁ。現場に居合わせた人が羨ましい。

奇をてらったようなところはなく、至って正統派な演奏

また、大変に分析的。勢いと気合で押し通すような虚仮威しタイプの演奏とは全く異なる。

オケメンバーの熱量も伝わってくる好演だと思います。

 

他方で、音色が単色的で、やや張りに欠けること、また、安全運転気味でもう一つ突き抜けてこないところが、強いて言うと欠点でしょうか。ほんとにほんと、強いて言うと。

録音の問題なのか、指揮者の調整力の問題なのか、はたまたオケの特性なのかはよくわかりませんが。

 

あとは、ベートーヴェンで見せてくれた演奏に比べると、今ひとつ新鮮味というか、新しさには欠けるように思います。

必ずしも新しいこと、変わったことをやれば良いっていうわけではないですけども。

 

ブーレーズ、マルケヴィチ、マゼール、デイヴィス、ドラティらが見せたような衝撃までには至りませんね。

まぁ職業指揮者が残した演奏の中でも超一級のこれらと比べちゃ、流石に酷ってもんでしょうけども。

 

ところで、春の祭典という作品は神秘性・秘儀性を失ってしまって久しいですね。

誠に残念というか、歯がゆいというか。

 

かつては、演奏すること自体、大変に難しい曲だったのです。

 

100人超の大編成オケが、複雑怪奇なリズム、技巧を凝らしたパッセージを30分ほど弾きこなし、体力的にも精神的にも全員疲れ切った最後の最後に、最難関の終曲「生贄の踊り」にさしかかるという、大変な親切設計

 

その昔、演奏技術も未熟な時代に日本で演奏された際は、指揮者が音楽の流れを完全に見失ってしまい、「今どこを演奏してるんだぁぁぁ!?」と叫んだ、なんという逸話も残っているほど。

 

「一瞬たりとも気を緩めると、演奏が崩壊してしまう」という極限の緊張下でのみ実現できる、ある種の艶というか凄みがある。そんな曲だと思います。

 

であるからして、「こんな曲、チョチョイのチョイで、簡単にやれちゃいます♫」なんて演奏をされちゃあ、元も子もない。端的に言って台無しである。

 

幸か不幸か、演奏技術が飛躍的に進歩した現代。

技術的に優れた「春の祭典」の名演・名盤がバンバンと量産されて然るべきところ、実際そうはなっていない。

 

春の祭典」の名盤は、おおかた70年代くらいまでに出尽くしてしまった感がある(前述のブーレーズ、マルケヴィチ、マゼール、デイヴィスやなんか。ドラティデトロイト響はギリ80年代だけども。)。

 

この頃は、オケの技術と作品の音楽的要求とがギリギリ釣り合っていた、そんな奇跡のような時代だったのかもしれない。

 

これより後の世代の演奏だと、注目すべきはサロネンゲルギエフ、ロト、ズヴェーデンあたりでしょうか。

上述の古い世代と比べると、技術的には優れているのかもしれませんが、音楽としてより優れているのかというと、いささか疑問ですね。

もちろん素晴らしい演奏であることに変わりありませんけども。

 

昔の演奏家は、専らスコア(楽譜)を頼りに、作品を分析・研究して「春の祭典」に臨んだことでしょう。

しかし、ある頃から、録音媒体の再生技術が発達し(聴きたいところを即時・簡単につまみ食い的にリピート再生等できるようになった)、参考となる過去の名演奏の録音も市場に多く出回り、音源を何度もリピートしてシミュレートし、合理的な「傾向と対策」を練ることが可能になった。

オーケストラの演奏技術も、日を追うごとに目覚ましい進歩を遂げていった。

挙句、「春の祭典」は手垢にまみれた「クラシック名曲のスタンダードナンバー」となり、アマチュアオーケストラまでもが手を出す「通俗名曲」と化してしまった。

 

春の祭典」は、太古の異教の儀式をモチーフとした作品、神秘性・秘儀性に満ちた作品だ。

また、スコアの記載ぶりからして、作曲者は、演奏者にとってチャレンジングな作品として想定していたはずだ。

チョチョイのチョイで演奏するような通俗名曲の類では断じてない

 

断っておくが、最近の演奏家やアマチュアを腐すつもりなどさらさらない。

時代の悲劇というかジレンマというか、そのあたりのことを訴えたい、嘆きたいのだ、私は。

 

学生の時分、初めて「春の祭典」を聴いたときの、あの衝撃を忘れられない。

 

初めて聴く前衛的な音楽(通史的に見れば、前衛の部類には入らないんだけど、そんなことを知ったのはずっと後のこと)。

 

これまで聴いたことのない極彩色のサウンド、奇抜なリズム、鮮烈な不協和音。

実験的・理知的でありながらも、たしかにそこに溢れるパッション、不思議な魔力。

 

ただただ打ちのめされ、来る日も来る日も「春の祭典」のCDを何枚も何種類も聴き漁った。

海外有名指揮者による来日公演があると知れば、なけなしのバイト代をはたいて、遠くまででも聴きに行った(古い世代のCD音源を超える演奏には、ついぞ出会わなかったけど)。

寝ても覚めても頭の中を「春の祭典」が流れていたあの頃。

 

春の祭典」は、私の中の何かを呼び覚まし、扉を開いてくれた、宝物のような作品だ。

春の祭典」がきっかけとなって、戦前・戦後の過激な前衛音楽、実験音楽に強く惹かれるようにもなった。

サウンドやアイディアの過激さという点で、「春の祭典」を超える音楽はいくらもある。だが、あの衝撃、求心力を超える作品には、未だ出会えていない。どの音楽ジャンルにおいてもだ。)

 

いつか「春の祭典」が神秘性・秘儀性を取り戻す日は来るのだろうか。

また、そんな場に、私は立ち会うことができるのだろうか。

 

少々愚痴っぽくなってしまった。

しかも、まとまりがない。

 

しかし、空気を読まず、大好きなものについて一杯語ることができて、私は大変満足。

悲観的な話なのに、なぜだか心は少し晴れやかだ。

 

あぁ良い気分だ。

 

連休よ、続け~。

 

※2020年8月2日追記

久しぶりに「春の祭典」の様々な音源を聴き直し、ロトの演奏の素晴らしさに驚嘆(以前はなぜかそれほどインパクトを受けなかったのだが)。

90年代以降に録音された「春の祭典」としては、私の知る限り、ぶっち切りで最高の演奏。

ブーレーズやデイヴィスに次ぐサードチョイスと言ってしまっても良いかもしれない。

1913年5月29日初演時の楽譜(1913年版の自筆譜に、初演時に手を加えたと考えられる修正を盛り込んだ版)を使用し、当時の楽器と奏法により、初演時サウンドの再現を試みた意欲的な演奏だ(録音時期は、初演から丁度100年後の2013年!)。

ロトを知らない方も是非一聴いただきたい。

『春の祭典』『ペトルーシュカ』 ロト&レ・シエクル : ストラヴィンスキー(1882-1971) | HMV&BOOKS online - ASM15

 

 

※この連載はフィクションです。実在の人物、団体及び事件等とは何ら関係がありません。