今から72年前の1952年8月29日、ニューヨーク州アルスター郡ウッドストックにあるマーベリック・コンサートホール。
この日この場所で、ジョン・ケージの「4分33秒」が初演された。
世界で最も有名な現代音楽作品である(現代音楽とは、ざっくり言うと、第二次大戦後に創作された前衛的・実験的なクラシック音楽作品のこと)。
ケージの説明によれば、本作は「無音」の音楽ではなく「沈黙」の音楽だ。
4分33秒の間、演奏者は何も演奏しない。
しかし、演奏者が音を出さずとも、必ずその場で何らかの音が鳴り響く。
演奏会場の中と外から偶然に聞こえる音、聴衆自身の発する音……。
沈黙によって浮き彫りになる、作曲者や演奏者の意図せざる音、コントロールの及ばない豊穣なる雑音。
これまで無視してきた雑音(非楽音)に耳を傾けることで、聴衆は新たな体験を得る。
概ねこんなコンセプトだ。
私はたまに本作を聴く。
頭の中で「今から『4分33秒』スタート!」と念じて、周囲の音に耳を傾ける。
普段「無意味な情報」として無視していた雑音達が、実に闊達かつ縦横無尽に動き出す。
意外と楽しいですよこれ。
私は本作を聴くのが好きだ。
何か新たな体験に心身を委ねるような、毎回新鮮な感覚を覚えるからだ。
本作に救われたこともある。
強い不安感やプレッシャーで押しつぶされそうなときなど。
そんなとき、本作を演奏してみてほしい。
只々無心に音を聴く。
誰かの思惑や文脈から切り離され、意味を取っ払われた、ただの音。
私が聴こうと決断しなければ、聴かれることのなかった音。
今ここにいる私しか体験していない音。
この時を逃せば二度と体験することのない音。
この世界の不思議さを感じ入るとともに、不安感が嘘のように薄らいでいることに気がつくかもしれない。
大袈裟ではなく、たしかに本作に救われた思いがするのだ。
しかし、本作の真価を真剣に理解しようとすればするほど、見えてくる問題がある。
多分私だけではないでしょう。
何度か愚直に本作を聴くことで、はっきりと気が付くのです。
「4分33秒」という作品(楽譜)は、重大なパラドックスとジレンマを抱えていると。
【第一のパラドックス「聴衆が意図的に音を出したら・・・」】
第一に、聴衆が意図的に発する音は、本作に含まれるのだろうか。
例えば、本作の演奏中に、聴衆の誰かが政治的意図を込めて「君が代」を歌い始めたとしよう。
そこで聴取する音楽は「君が代」ではなく「4分33秒」なのだろうか。
「『4分33秒』の演奏中に『君が代』の歌唱という演奏妨害があった」などと言い逃れすることはできない。
ケージの説明によれば、その場で実際に鳴り響く音に耳を傾けることが、本作鑑賞の肝なのだから。
その場で実際に鳴り響く「君が代」の歌唱も「4分33秒」を構成する音と考えねばならない。
しかし、これはケージが説明する本作の狙いに反する。
我々が無視してきた雑音(=非楽音。楽音とは異なり、音楽を構成する音にはなり得ないとして無視される音。)、その価値を新たに認めさせることが本作の狙いだ。
(「価値」という言葉は私としては今一つしっくりこないが、さしあたり分かりやすく「価値」としておく)
誰かの主張として出てきた音ではなく、その場で偶然に鳴り響く音。
人間の自己主張・エゴとは無縁の雑音に、独自の価値を見出すことこそが、本作の狙いだ。
そうである以上、誰かの意図的な自己主張(ここでは「君が代」の歌唱)を本作の音として聴くことは、ケージの狙いに反する。
これが第一のパラドックスだ。
このパラドックスを回避するためには、聴衆をも楽譜の指示に従わせる必要がある。
本作を演奏する場に居合わせる者は、全員楽譜の指示に従わなければならない(沈黙しなければならない)という具合に、楽譜を解釈するわけだ。
この解釈において、演奏者と聴衆との間に引かれた境界は無効化することになる。
その場にいる全員が沈黙を守る演奏者兼聴衆になるからだ。
そうすれば、聴衆が好き勝手に「君が代」を歌い出すといったパラドックスは回避できる。
しかし、それでも尚、解決しない問題がいくつかある。
【第二のパラドックス「雑音を聴かない人に雑音を聴かせる?」】
本作の演奏そのものには、雑音の価値を聴衆に認めさせる力が全く無い。
これが第二のパラドックスだ。
本作の狙いは、雑音の価値を聴衆に認めさせることだ。
この狙いの背景には「聴衆は雑音の価値を認めていない」という前提がある。
だってそうだろう。
「聴衆は雑音の価値を認めていない」という前提があってこそ、「いや雑音にも実は価値があるのだ」というメッセージが初めて意義を持つのだから。
この世界の誰もが雑音の価値を認めているのであれば、本作を演奏して世に問う意義は全くない。
「そんなの(雑音にも価値があるなんて)当たり前だろう」としかならない。
そう、真に本作を聴くべき人は、「雑音には価値がない」と思っている人。
より厳密に言えば、「雑音も音楽になり得る」とは夢にも思わないような人である。
そうした人が本作を聴き、「この世界は何と豊穣なる音で満ちているのだろう!私は今までこの音を無視してきたのか!」と感動してこそ、本作の役目が正に果たされることになるのだ。
しかしである。
普段、人間は耳に入る音の全てをくまなく聞き取って認識しているわけではない。
注意すべき情報として意識しなければ、その場で鳴り響く音を、積極的・主体的な体験として認識することはできない(正にこの点にこそ「4分33秒」を意識的に鑑賞する意味がある)。
ここで問題になるのが、本作に関する予備知識を持たない人。それも「雑音も音楽になり得る」とは夢にも思わないような人だ。
そんな人が本作の演奏会に臨席したとしよう。
おそらくその人は「演奏者がいつまで経っても一切音を出さないまま演奏会が終わった」としか認識しないだろう。
だって演奏会において「楽音以外の音を音楽として聴く」という発想がそもそもないのだから。
「楽音がない」ことしか認識できず、「雑音も音楽だ」と認識することはない。
この聴衆が本作の演奏を通じて雑音の価値を悟ることなど決してない。
ケージのコンセプトが奏功することはないのだ。
これが第二のパラドックスだ。
このパラドックスを回避するためには、聴衆に対する「沈黙せよ」という指示に加え、「その場で鳴り響く全ての音を音楽として傾聴せよ」という指示が必要になる。
しかし、ここまでやっても解消しない問題がある。
【第三のパラドックス「やっぱり意図的な音は防げない?」】
第三のパラドックスは、その場に居合わせない第三者が音を発したときに問題となる。
例えば、演奏会場の近くに右翼の街宣車が駐車していたとしよう。
その街宣車が大音量で「愛国行進曲」の録音を流し、会場の中まで聞こえてきたとする。
そこで聴取する音楽は「愛国行進曲」ではなく「4分33秒」なのだろうか。
第一のパラドックス(聴衆が意図的に発音したときに生じる問題)以上に、この第三のパラドックスは厄介だ。
その場に居合わせない第三者までは、楽譜の指示に従わせることができないからだ。
楽譜の書き込みや解釈によっては、この第三のパラドックスを解決することはできない。
一応、ケージが本作発表の前に実験したように、無響室(外部の音を全て遮断する特殊な部屋)で本作を演奏すれば、この第三のパラドックスも回避することはできる。
ただし、第三のパラドックスは、さらに根深い問題を提起しているようにも思える。
意図的な音と偶然に生じる音というのは、そう簡単に截然と区別できるのだろうか。
例えば、演奏会場の空調の送風音や、聴衆の咳払いはどうだろうか。
「そのような音が出ると分かったうえで出している音」という観点で言えば、意図的な音とも考えることができる。
空調をONにした会場設営者は「送風音が出る」と分かったうえで送風音を出している。
咳払いをする聴衆は「咳払いの音が鳴り響く」と理解したうえで咳払いをする。
偶然にこの世界で鳴り響く雑音とは異なると考えることもできる。
そうした意図的な音を聴くことは、本作の範疇外のイベントではないだろうか。
(あえてフォローするならば、意図的な音とは「誰かに聴かせたいと積極的に欲して出す音」のような作為的な音と定義すれば、空調の送風音や咳払い音は意図的な音ではないということになる)
あれこれ考えてみると、どのような体験をすれば「4分33秒」を聴いたことになるのか、実はそれほど明確ではないのかもしれない。
以上をまとめると、こんな感じだ。
【第一のパラドックス「聴衆が意図的に音を出したら・・・」】
聴衆が意図的に音を出した場合、その音を本作の音と考えても、本作の音ではないと考えても、矛盾が生じる。
⇒ 演奏の場に居合わせる聴衆全員を楽譜の指示に従わせる(その場の全員を沈黙させる、そのように楽譜を解釈する)ことで解決できる。
【第二のパラドックス「雑音を聴かない人に雑音を聴かせる?」】
本作をただ演奏するだけでは、「雑音の価値を認めない人」に対して、雑音の価値を認めさせることができない。
⇒ 「沈黙せよ」という指示に加え、「その場で鳴り響く全ての音を音楽として傾聴せよ」という指示を聴衆へ事前に行うことによって解決できる。
【第三のパラドックス「やっぱり意図的な音は防げない?」】
その場に居合わせない第三者が意図的に音を出した場合に、第一のパラドックスと同様の矛盾が発生する。
⇒ 外部の音を遮断する無響室で本作を演奏することで解決できる(ただし、意図的な音と偶然に生じる音というのは、そもそも本当に区別できるのかという問題は残る)。
三つのパラドックスは、一応解決しようと思えば解決できる問題だ。
しかし、ケージは、三つのパラドックスを解消すべく、本作を改訂するとか、指示を追記するといったことはしなかった。
ケージも馬鹿ではない。
むしろとんでもなく頭の良い人だったそうだ。
私が指摘するような問題など、ケージも気が付いていたはずだ。
それでは、なぜケージは三つのパラドックスを解決しようとしなかったのか。
この点こそが、実は本作が抱える最大のジレンマなのである。
【「4分33秒」が抱えるジレンマ】
各パラドックスを解決するためには、①聴衆も楽譜の指示に従え、②その場で鳴り響く全ての音を音楽として傾聴せよ、③本作の演奏は無響室で行え、といった指示を楽譜に追記する必要がある。
しかし、これが厄介だ。
上記①~③の指示が記載された楽譜を想像してみて欲しい。
野暮だと思いませんか。
本作のありがたみというか、素朴さ、純粋さ、神秘といった魅力が、途端に雲散霧消してしまう気がしないだろうか。
実はケージは本作の楽譜を何度か書き直している。
最も有名な版は一枚の紙にこう書かれたものだ。
I
TACET
II
TACET
III
TACET
(”TACET”とは「声や音を出さない」という意味。なぜ3楽章形式とされたのかは私にはわからない。誰か教えてください。)
なんというシンプルさだろう。
沈黙の余韻の美しさ、洗練された潔さのようなものが感じられないだろうか。
あれこれ詳細に指示を書き込めば、たしかにパラドックスは解決するかもしれない。
しかし、楽譜に詳細な指示を書き込めば書き込むほど、作品は素朴で無垢な輝きを失い、精彩を欠いていくような気がしないだろうか。
また、指示が厳密になればなるほど、本作を演奏して得られる体験も、貧しく固定的なものになってしまうだろう。
すなわち、本作の各パラドックスを回避するためには、「無響室に入って音を立てるな」といった指示に落ち着くことになる。
しかし、そのような縛りを設定してしまうと、本作の演奏では自ずと毎回似たような音響が展開されることになるだろう。
本作が秘めた多様な可能性が失われてしまうのだ。
(そもそも、無響室の使用など要求してしまうと、本作の演奏機会自体が著しく少なくなってしまうだろう。それでは本末転倒だ。)
作品の可能性や神秘性を守ろうとすると、重大なパラドックスが生じる。
しかし、パラドックスを回避しようとすると、作品が本来持っていた可能性や神秘性が失われる。
これこそが本作の抱える最大のジレンマだ。
【「0分00秒」の初演に見るケージの天才ぶり】
おそらくケージは、本作が抱えるパラドックスもジレンマもよく理解していたのだろう。
本作の楽譜を改訂して詳細な指示を書き込むといった愚行には及ばなかった。
その代わりに何をしたのか。
本作の発表から10年後、赤坂の草月ホールにおいて、ケージは「4分33秒(第2番)」として「0分00秒」を初演してみせた。
この初演こそは、天才ケージの面目躍如である。
「0分00秒」の楽譜に記載されているのは以下の三点。
・独奏であれば誰が何をしても良い
・ただし、習熟した日常的な行為である必要があり、そこに演技を加えてはならない
・二回目以降の演奏では、以前に行った動作をしてはならない
これだけだ。
「0分00秒」においては、「4分33秒」が抱えるパラドックスは発生しないようになっている。
まず、楽譜の指示に従うべき者は演奏者に限定されている。
また、聴取すべき音も演奏者の発した音に限定されている。
したがって、演奏者以外の者が発した音はたとえ何であれ、作品を構成する音には含まれないということになる(聴衆が勝手に歌い出したり、右翼の街宣車が垂れ流す音楽が会場内に聞こえてきたとしても、これらの音は「0分00秒」とは無関係の音と断言できる)。
また、「雑音も音楽になり得る」とは夢にも思わないような聴衆が、「0分00秒」の演奏会場に居合わせたとしよう。
その人は、多分に戸惑いながらも、目の前の演奏者がどうやら音楽のつもりで色々な音を発しているらしいということは認識するはずだ。
(ちなみに「演技を加えてはならない」という指示も重要だ。やはりケージは作為的な音を排除することに拘ったのだろう。)
かくして、「4分33秒」におけるような各パラドックスは回避された。
では、「4分33秒」が抱えていたジレンマについてはどうだろうか。
たしかに、「0分00秒」の楽譜の記載内容には、「4分33秒」ほどの潔さ・素朴さ・神秘性がない。
また、「沈黙の音楽」という「4分33秒」のあまりに大胆な発想と比べると、「0分00秒」は過激さの点でかなり後退しているようにも思える。
しかしだ。やっぱりケージは天才だった。
この「0分00秒」の初演はどういうものだったのか。
なんと、舞台上で万年筆や灰皿にマイクをつけたジョン・ケージが、「0分00秒」の楽譜を書くというパフォーマンスだったのである。
静謐な「4分33秒」とは対照的に、楽譜を書きながら水を飲んだりタバコを吸ったりする音をマイクで増幅させて、会場を大音響で満たしたそうだ。
未だこの世に楽譜として存在せず、演奏されたこともない「0分00秒」。
その「0分00秒」を作曲する行程それ自体をもって、「0分00秒」を初演してみせたのだ。
こうしたメタ構造を持ち込むことによって、ケージは作品の一回性・神秘性をも表現したのである。
しかも、ケージは初演時に「二回目以降の演奏では、以前に行った動作をしてはならない」と周到に楽譜へ記載してみせた。
そうすることで、初演の神秘性を守りつつ、将来における演奏のマンネリ化をも回避したのだ。
天才アイディアマンのなせる業であると、私は手放しで称賛したい。
しかし、どれだけの人が「0分00秒」という作品を知っているだろうか。
また、「0分00秒」が「4分33秒(第2番)」として作曲された意味を、どれほどの人が考えたことがあるだろうか。
やっぱり「0分00秒」は「4分33秒」を超えられなかったようだ。
世間での知名度も評価も、おそらく月とスッポンだろう。
さしもの天才ケージの奇策も、あのセンセーションを再度巻き起こすことはできなかったのだ。
たしかに、「4分33秒」は問題だらけの不完全な作品だ。
しかし、否、だからこそ、初演から72年経った今尚、興味の尽きない怪作であることは間違いない。