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音楽史を作ったライバル達【補遺①】ブーレーズとケージの作曲観

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の補遺

 

ブーレーズの作曲観】

ブーレーズ自身は、アカデミズムや因習と戦っているつもりでいたはずだ。

しかし、ブーレーズの作曲観自体は、紛れもなく旧来型であった。

晩年にブラームスを称揚していたのは象徴的だ。

 

たしかに、ブーレーズは、総音列技法の旗手として、また「管理された偶然性」の主唱者として、音楽史に名を残している。

しかし、総音列技法の発想自体は、ブーレーズの独創ではない。

かつてカウエルが予言し、ウェーベルン作品にその萌芽が現れ、ブーレーズの師匠メシアンも接近した技法だ。

誰かが実行するのは時間の問題でしかなかった。

別にブーレーズでなくても良かったのだ。

また、ブーレーズ流の「管理された偶然性」も、一聴してそれと判別できるような効果は何もない。

汎用性・影響力という点では、ルトスワフスキ武満徹流の「管理された偶然性」に軍配が上がる。

他ならぬブーレーズ自身、彼流の「管理された偶然性」で書いた作品を、確定記譜へ改訂し直したり、未完のまま放置する等している。

 

こうしてみると、ブーレーズが革命的な何事かを成したとは言い難い。

 

ちなみに、ブーレーズを象徴する作曲観としては、彼が主張する「ワーク・イン・プログレス」なるものも挙げられる。

一つの作品の創作というのは、どこかで完結するということがなく、いつまでも手を加えられ続けるといったような発想だ。

一見「ふ〜ん、そんな考え方もあるのか」と思えなくもない。

しかし、単なる改訂癖と質的に何が違うのかよく分からない。

特に斬新な作曲観とも思えない。

 

【ケージの作曲観】

音楽史上のインパクトという点では、ケージがブーレーズに勝利している。

ブーレーズは指揮活動に転向し、ケージは死ぬまで創作活動を続けた。

作曲において、ブーレーズの代わりはいても、ケージの代わりはいなかったのだ。

 

しかし、果たしてケージは空前絶後の革命家だったのだろうか。

この辺りの問題は冷静に評価し直す必要がある。

 

ケージは

①作曲家が楽譜を書く

演奏家が楽譜の指示に従って演奏する

③聴衆がその場で演奏に耳を傾ける

という伝統的な図式に愚直なまでに拘った人だ。

 

ケージが一貫していたのは、楽譜というツールを用いて、音楽が発生するための「仕掛け」を作るということだ。

特に、時間と音数の分布のコントロールに、ケージは強く拘った。

その拘りは、音響現象の均一化(似たような音の並びが演奏中に頻発すること)を避けるための工夫であった。

 

ケージが行った「作曲」とは、面白い現象が偶然発生する「仕掛け」を作るという、間接的なコントロールであったといえる。

 

また、ケージは、演奏家のエゴによる好き勝手や即興を厳しく禁じた。

一方で、演奏家のセンスや熟練度には強く拘っていたようだ。

素人にピアノの鍵盤を適当に叩かせて「これぞ偶然性!」などといった愚かな主張はしなかったのだ (ケージ作品が面白く聴けるのは、デイヴィッド・チューダーら天才奏者のアイディア・演奏によるところも大きい)。

プリペアドピアノにしても、完全に未知の音を目指すのではなく、実際に聴いてみて面白い音になるか、何度も試して確認するプロセスを経るなどしていたそうだ。

ケージ流の偶然性は、野放図・好き勝手を許さなかったのだ。

 

ケージは、偶然に面白い音楽が発生するための「仕掛け」を厳格にコントロールした。

そのように見ると、ケージの作曲観がブーレーズらとどこまで質的に異なるのか、分からなくなってくる。

奇しくもケージ自身、二人の作曲観の違いについて「距離のようなもの」と発言している(「遠くから見比べれば、同じ場所にあるように見える。その程度の違いしかない。」といったニュアンス)。

 

「音楽の聴き方」という問題についても、ケージは徹底して保守反動であった。

 

ロマン派以降のクラシックの音楽家に通底する価値観(暗黙の共通目標)は、永遠性・普遍性の追究であった。

楽譜を残すことも、録音を残すことも、こうした価値観の表れと言える。

 

これに対し、ケージは聴体験の一回性を重視した。

音楽演奏・聴取の一回性であるとか、その人だけの聴体験というものを大切にした。

そして、それが面白い聴体験であることを重視した。

だからこそ、演奏する度に全く違った面白い音楽が聴こえてくるよう、「仕掛け」の設定に拘った(彼はそれを「作曲」と考えた)のだ。

 

これは、ある意味で、ネウマ譜以前の「記録に残らない一期一会の音楽」という大昔への先祖返りとも評価できる。

ちなみに、ケージはレコード時代には録音嫌いでもあった(ただし、CD時代には録音も監修していた)そうだ。

 

・楽譜の設計に拘る、

・演奏者に対し

・・楽譜の指示に服従させる、

・・楽譜の指示を実行できるレベルの技術を要求する、

・・楽譜の指示に反しない範囲でセンスを発揮するよう要求する、

・聴衆に対して一期一会の聴体験を提供する……

 

ケージが行ったことは、奇天烈な革命などではなかったのかもしれない。

21世紀の現在に総括するならば、ブーレーズだけでなく、ケージも実はそんなに突飛なことはしていなかったと言えそうだ。

どうもケージというと、有名な「4分33秒」によるセンセーショナルなイメージが先行し過ぎるきらいがある。

コンセプチュアルな屁理屈思想家と断定されやすい。

しかし、実際の彼の主張・スタンスはむしろその正反対。

ある意味非常に単純であった。

「御託はいいから、鳴ってる音を聴け」である。

どんな音が聴けるかということに、とことん拘った人だったのだ。