ブーレーズ VS ケージ【音楽史を作ったライバル達⑥】 - 弁護士法人フィクショナル・公式ブログ(架空)
ジョン・ケージに学ぶ「強かな生き方」 - 弁護士法人フィクショナル・公式ブログ(架空)
の補遺
【ブーレーズの作曲観】
ブーレーズ自身は、アカデミズムや因習と戦っているつもりでいたはずだ。
しかし、ブーレーズの作曲観自体は、紛れもなく旧来型であった。
晩年にブラームスを称揚していたのは象徴的だ。
たしかに、ブーレーズは、総音列技法の旗手として、また「管理された偶然性」の主唱者として、音楽史に名を残している。
しかし、総音列技法の発想自体は、ブーレーズの独創ではない。
かつてカウエルが予言し、ウェーベルン作品にその萌芽が現れ、ブーレーズの師匠メシアンも接近した技法だ。
誰かが実行するのは時間の問題でしかなかった。
別にブーレーズでなくても良かったのだ。
また、ブーレーズ流の「管理された偶然性」も、一聴してそれと判別できるような効果は何もない。
汎用性・影響力という点では、ルトスワフスキや武満徹流の「管理された偶然性」に軍配が上がる。
他ならぬブーレーズ自身、彼流の「管理された偶然性」で書いた作品を、確定記譜へ改訂し直したり、未完のまま放置する等している。
こうしてみると、ブーレーズが革命的な何事かを成したとは言い難い。
ちなみに、ブーレーズを象徴する作曲観としては、彼が主張する「ワーク・イン・プログレス」なるものも挙げられる。
一つの作品の創作というのは、どこかで完結するということがなく、いつまでも手を加えられ続けるといったような発想だ。
一見「ふ〜ん、そんな考え方もあるのか」と思えなくもない。
しかし、単なる改訂癖と質的に何が違うのかよく分からない。
特に斬新な作曲観とも思えない。
【ケージの作曲観】
音楽史上のインパクトという点では、ケージがブーレーズに勝利している。
ブーレーズは指揮活動に転向し、ケージは死ぬまで創作活動を続けた。
作曲において、ブーレーズの代わりはいても、ケージの代わりはいなかったのだ。
しかし、果たしてケージは空前絶後の革命家だったのだろうか。
この辺りの問題は冷静に評価し直す必要がある。
ケージは
①作曲家が楽譜を書く
②演奏家が楽譜の指示に従って演奏する
③聴衆がその場で演奏に耳を傾ける
という伝統的な図式に愚直なまでに拘った人だ。
ケージが一貫していたのは、楽譜というツールを用いて、音楽が発生するための「仕掛け」を作るということだ。
特に、時間と音数の分布のコントロールに、ケージは強く拘った。
その拘りは、音響現象の均一化(似たような音の並びが演奏中に頻発すること)を避けるための工夫であった。
ケージが行った「作曲」とは、面白い現象が偶然発生する「仕掛け」を作るという、間接的なコントロールであったといえる。
また、ケージは、演奏家のエゴによる好き勝手や即興を厳しく禁じた。
一方で、演奏家のセンスや熟練度には強く拘っていたようだ。
素人にピアノの鍵盤を適当に叩かせて「これぞ偶然性!」などといった愚かな主張はしなかったのだ (ケージ作品が面白く聴けるのは、デイヴィッド・チューダーら天才奏者のアイディア・演奏によるところも大きい)。
プリペアドピアノにしても、完全に未知の音を目指すのではなく、実際に聴いてみて面白い音になるか、何度も試して確認するプロセスを経るなどしていたそうだ。
ケージ流の偶然性は、野放図・好き勝手を許さなかったのだ。
ケージは、偶然に面白い音楽が発生するための「仕掛け」を厳格にコントロールした。
そのように見ると、ケージの作曲観がブーレーズらとどこまで質的に異なるのか、分からなくなってくる。
奇しくもケージ自身、二人の作曲観の違いについて「距離のようなもの」と発言している(「遠くから見比べれば、同じ場所にあるように見える。その程度の違いしかない。」といったニュアンス)。
「音楽の聴き方」という問題についても、ケージは徹底して保守反動であった。
ロマン派以降のクラシックの音楽家に通底する価値観(暗黙の共通目標)は、永遠性・普遍性の追究であった。
楽譜を残すことも、録音を残すことも、こうした価値観の表れと言える。
これに対し、ケージは聴体験の一回性を重視した。
音楽演奏・聴取の一回性であるとか、その人だけの聴体験というものを大切にした。
そして、それが面白い聴体験であることを重視した。
だからこそ、演奏する度に全く違った面白い音楽が聴こえてくるよう、「仕掛け」の設定に拘った(彼はそれを「作曲」と考えた)のだ。
これは、ある意味で、ネウマ譜以前の「記録に残らない一期一会の音楽」という大昔への先祖返りとも評価できる。
ちなみに、ケージはレコード時代には録音嫌いでもあった(ただし、CD時代には録音も監修していた)そうだ。
・楽譜の設計に拘る、
・演奏者に対し
・・楽譜の指示に服従させる、
・・楽譜の指示を実行できるレベルの技術を要求する、
・・楽譜の指示に反しない範囲でセンスを発揮するよう要求する、
・聴衆に対して一期一会の聴体験を提供する……
ケージが行ったことは、奇天烈な革命などではなかったのかもしれない。
21世紀の現在に総括するならば、ブーレーズだけでなく、ケージも実はそんなに突飛なことはしていなかったと言えそうだ。
どうもケージというと、有名な「4分33秒」によるセンセーショナルなイメージが先行し過ぎるきらいがある。
コンセプチュアルな屁理屈思想家と断定されやすい。
しかし、実際の彼の主張・スタンスはむしろその正反対。
ある意味非常に単純であった。
「御託はいいから、鳴ってる音を聴け」である。
どんな音が聴けるかということに、とことん拘った人だったのだ。