モーツァルトら古典派音楽の演奏スタイルは、20世紀の後半に大きく変化した。
かつては、分厚い大編成の現代オーケストラでもって、コッテリずっしりロマンティックに演奏されていた。
しかし、アーノンクールら革新派が登場してからは、何もかも大幅に変わってしまった。
少人数の古楽器オーケストラにより、あっさり辛口の快速テンポで演奏されるようになったのだ。
(その功罪について、私のような素人が今更あれこれ言っても仕方がない。議論もされ尽くした話題だと思うので、ここでは詳述しない。)
日本のオールドファンにとって、モーツァルト指揮者といえば、ワルターやベームであった。
私がクラシック音楽を聴くようになったのは2002年頃。
私のような新参者にとっても、ワルターやベームが偉大な指揮者であることに変わりはない。
25番や40番などの短調交響曲の演奏は、未だにワルター&ウィーンフィルが至高だと思っている。
「ジュピター」や「レクイエム」などの立派なイメージの作品では、ベームの右に出る者はいないと確信している。
バックハウスと共演したピアノ協奏曲27番も「天国の調べ」と評する他ない。
しかし、「プラハ」に関しては・・・ワルターやベームは古臭いと感じてしまう。
ワルター&コロンビア響(1959年)
数多くの録音が残されている。
ワルターに限らないが、ウィーンフィルなどと演奏するときは、彼らの流儀に委ねるようなところが見受けられる。
ウィーンフィルにとってモーツァルトは「お国もの」であり、彼らのやり方がある。
ワルターもその領分は決して侵害しない。
他方、このコロンビア響との演奏では、好きなように「ワルター節」を効かせている感じがする。
当時のアメリカ人オーケストラにとって、19世紀生まれのドイツ人老巨匠の指示は「絶対」だっただろう。
彫りが深くてコッテリとしたモーツァルトだ。
ところで、この録音は、ワルターが残した「プラハ」で唯一のステレオ録音だ。
モノラルでは分からなかったワルターの「過ち」が聴きとれてしまう。
オーケストラを通常配置にしてしまっているのだ!
19世紀以前、オーケストラの標準的な配置は、舞台向かって左手に1stヴァイオリン、右手に2ndヴァイオリンであった(いわゆる対向配置)。
18世紀人のモーツァルトも、対向配置を想定して「プラハ」を書いたはずだ。
「プラハ」では、弦楽器同士が会話のように掛け合ったり、細かく独立した動きをとる精妙な仕掛けが施されている。
さながらオペラのような、会話のキャッチボールが展開されるのだ。
この会話の妙味は、対向配置でないと伝わらない。
通常配置にしてしまうと、1stヴァイオリンと2ndヴァイオリンが舞台向かって左手に隣接することになる。
「プラハ」の会話の面白さが半減してしまうのだ。
ベームも同じ「過ち」を犯している。
独自配置(対向配置に似た配置)がデフォルトのウィーンフィルに対してさえ、なぜが通常配置で演奏させている(コントラバスだけは例によって最後列横並びかもしれない)。
革新派のアーノンクールですら、超名門コンセルトヘボウとの共演に際しては、通常配置を採用する愚を犯している。
オーケストラ側が抵抗したせいかもしれない。
いずれにせよ不徹底な「妥協の産物」と言わざるを得ない。
アーノンクール&ロイヤルコンセルトヘボウ(1981年)
他方、手兵であるウィーン・コンツェントゥス・ムジクスとの演奏では、さすがに対向配置を採用している。
ここまで長々とマニアックな話をダラダラと書いてきた。
そんな私の一番好きな「プラハ」の演奏はなにか?
マニアの方々にしてみれば、ベタ過ぎるチョイスであれなんだが・・・
シューリヒト&パリ・オペラ座管(1963年)
この録音こそは、モーツァルト演奏史に燦然と輝く「オールタイム・ベスト・プラハ」である。
清流のように澄み切ったクリアなサウンド。
木管楽器の粋な音色。
「おセンチ」に傾かない凛とした弦楽器群。
対向配置により明瞭に浮かび上がる楽器達の闊達な会話。
現代楽器による演奏だが、誠に繊細・清廉な演奏である。
こってりロマンティックで胸焼けする古臭いモーツァルトとは一線を画する。
昔の人による昔の演奏だが、今なお色褪せない魅力をたたえている。
古楽器オケによる今どきの「垢抜けた」演奏でも、未だこれを超えるものは出てきていない。
毎年夏になると、無償に聴きたくなってしまう演奏だ。
暑さでベタベタした身体を、涼しい風が通り抜けていく。
冷たく澄んだ湧き水のような清涼感がたまらない。