昨日は古典派音楽の演奏スタイルについて書いた。
演奏スタイルにも流行がある。
ワルターやベームのような大巨匠の演奏ですら、ものによっては古臭く感じてしまうことがある。
法学の世界だとどうだろうか。
私なんかは、アカデミックな議論には殆ど興味のないまま、実務の世界に入って今に至る。
フワッとしたイメージになってしまうが、実務家にとって基本六法に関する認識はこんな感じだろうか。
・憲法
伝統的な芦部説はオワコン。
実務家目線で考えれば、「脳死」で基本書を読むのではなく、判例の理解・解釈が大切(憲法なんか殆ど使わないけど)。
他ならぬ憲法学者の安念潤司が「判例は神、学説はゴミ」とおっしゃっている。
・民法
伝統的な我妻説で問題なく回っていた。
しかし、ゴミみたいな現代の学者達のエゴのために、無駄な改正がなされた。
ゴミ学者達は、改正後の解説講演に顔を出せば、「お小遣い」も増える。
実にセコイ商売だ。
https://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kaigi/meeting/2013/wg3/sogyo/140723/item2-1.pdf
・刑法
伝統的な団藤説で回っている。
しかし、先端的な議論に関しては、山口厚や井田良などの学説・説明は、実務家にも高く評価されているような気がする。
・商法(会社法)
学説?なにそれ美味しいんですか?
・民事訴訟法
伝統的な兼子説でほぼ回っている。
というか、手続法は国によっては学問とすら考えられていない(あくまで道具であって、アカデミックな考察の対象ではないという理解)。
新堂幸司や高橋宏志ら「逆張り・役に立たない」学説について、実務家の視線は冷たい(と思う)。
「ぼくのかんがえたさいきょうのみんそほう」を延々と議論されてもね。
学説?なにそれ美味しいんですか?
学生時代に既に感じていたことだが、判例百選の解説ページなど読んでみると、実務家の解説は大体素晴らしい。
学者が書いた解説は玉石混交である。
とまぁこんな具合だろうか。
異論も多々あるだろうけれど。
法学というのは、社会をより良くするためのツールでしかない。
法は、ごく一部のエリートではなく、全国民(全世界の人)が使うものだ。
「学者のオ◯ニー」みたいな自己満足による「難解な屁理屈」などゴミ以下だ。
無益であるどころか有害ですらある。
使いやすい・分かりやすいはずの道具に難癖をつけ、「難解でありがたいもの」かのような偽装工作を施すのは、社会にとって害でしかない。
そんなのは、ゴミみたいな学者のエゴでしかない。