作曲家・諸井三郎の弟子に、入野義朗、柴田南雄、戸田邦雄という、いずれも東大卒のエリート三人衆がいたそうだ。
この三人衆が規範としたのは、ドイツ音楽だったらしい。
「そうだ」とか「らしい」と書いたのは、本日に至るまで、私が三人の作品を一つも聴いたことがなかったから。
私の歴史認識(日本のクラシック系音楽創作に関する歴史認識)は、だいぶフランス系に偏っていたようだ。
日本を代表する作曲家と言えば、武満徹と三善晃の二大巨頭と信じて疑ってこなかった。
これまで、武満&三善を基軸として、関連人物へと枝分かれするように邦人作品を聴いてきた。
自然とその流れの外にいる人達は「その他大勢」として無視してしまっていたのだ(全くもって失礼かつ無知な話だけど)。
で、上記三人衆についても、物の本で名前を目にしたことがあるだけで、「作曲家崩れの評論家・学者でしょ」くらいに誤解していた(本当に失礼な話だ)。
さらに白状するなら、戸田邦雄に至っては、今日の今日まで名前すらまともに認識していなかった(本当に本当に失r)。
少し調べてみただけでも、興味深いことが分かった。
戦後間もない頃、戸田がレイボヴィッツの著作「シェーンベルクとその楽派」を日本に持ち帰り、入野、柴田と共に十二音技法を研究するようになったそうだ。
レイボヴィッツはユダヤ系。シェーンベルクもユダヤ人。十二音技法の広告塔アドルノもユダヤ人。
戦後西側では、アンチ・ナチス音楽として、十二音技法が台頭していった(他方、伝統的なドイツ音楽の作曲家・教育者は公的立場から排除された)。
ドイツ音楽を規範としたという戸田ら三人衆が、十二音技法を研究したというのも、そうした時代の流れを汲んでのことかもしれない。日本はGHQの占領下にあったし。
ただ、音楽史のメインストリーム(私が認識するところの主流)から三人衆が外れているというのも、故なきことではなさそうだ。
戦後西側前衛が範としたのは、あくまでウェーベルンの系統(≒ 総音列技法の流れ)だったからだ。
総音列技法の流れから外れたレイボヴィッツやシェーンベルクは、戦後の主流ではなかった。
レイボヴィッツやシェーンベルクを範にした三人衆は、音楽史的には傍流に位置すると見て、多分間違いではなさそうなのだ。
・・・前置きが長くなった。
本日から早速三人衆の音楽を少しずつ聴いてみることにした。
まずは一人目。
柴田南雄(1916年9月29日 - 1996年2月2日)。
名前は三人衆の中で一番有名かもしれない(勝手に私がそう思っている)。
錚々たる学者一族の家系の生まれだそう。
う〜ん、実にシェーンベルクっぽい!
シェーンベルクの音楽を、日本的な怪奇趣味のテイストで仕立て直したような作品だぞ!
真っ先に連想したのが以下の作品だ。