ワーグナー VS ブラームス【音楽史を作ったライバル達④】 - 弁護士法人フィクショナル・公式ブログ(架空)の続き
【時代と場所】
1920年〜1950年頃のウィーンとパリ(途中からアメリカ)
【登場人物】
アルノルト・シェーンベルク(1874年9月13日 - 1951年7月13日)
イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882年6月17日 - 1971年4月6日)
【対立の概要】
・十二音技法(シェーンベルク、ウェーベルン、ベルクら新ウィーン楽派やハウアー等)VS 新古典主義(ストラヴィンスキー、ヒンデミットやフランス六人組等)。
・作曲のスタンスとして、新しいシステムの構築を目指す(十二音技法)か、古い素材や様式を再構成する方向を目指す(新古典主義)かという美学的な対立。
・特にシェーンベルクとストラヴィンスキーは犬猿の仲であった。二人ともアメリカ移住組であり、同じハリウッドの近所に住んでいたにも関わらず、顔を合わせることはなかったという。
【対立の背景】
・当初、シェーンベルクは後期ロマン派の作風から出発し、「浄夜」(1902年初演)によって、ワーグナー派とブラームス派の作風の発展的統合に成功した。
・しかし、衝撃の「トリスタン和音」登場から約40年。この頃、調性音楽は崩壊の危機に瀕し、今後の音楽の進むべき道が問われていた(ロマン派音楽の行き詰まり)。
・シェーンベルクらは、表現主義に転向し、自由な感性で無調による作曲活動を展開した。その帰結が「月に憑かれたピエロ」(1912年初演)等。
・同時期、ストラヴィンスキーは「火の鳥」、「ペトルーシュカ」、「春の祭典」というヒット作を連発していた(1910年〜1913年)。斬新な管弦楽法とリズムにより、ヨーロッパの伝統とはかけ離れた新しい音楽として注目を浴びた(原始主義と呼ばれた)。
・しかし、第一次世界大戦後(1918年以降)、両者いずれも作風が大きく変わってしまう。かつては互いに認め合っていた二人だが、この頃から険悪な関係になっていく。
・両者とも、戦前の作品に見られた自由な(より端的に言えば「狂気じみた」)インスピレーションは鳴りを潜めている。様式や型を重視した(悪く言えば形式主義的な)ストイックな作風となる。
・シェーンベルクは、調性音楽(システマチックだが使い古された方法論)と無調音楽(斬新だが依るべき型がない)を止揚する新たな理論として、十二音技法を提唱した。バッハ、ベートーヴェン、ワーグナー、ブラームスらが作り上げた「偉大なるドイツ音楽」。その「遺産」を引き継ぐ泰斗としての自負が、シェーンベルクにはあった。そのような自負から、彼は「終わりかけた音楽史」を前進させようとしたのである。
・一般的に、シェーンベルクは革新派と評されることが多い。しかし、その実、前記のように素朴な進歩史観に基づくスタンスや、晦渋な作風という点において、むしろドイツ流ロマン主義の系譜に連なる伝統主義者だといえる。
「私は急進派の人間とならざるを得ないように仕向けられた保守的な人間です」(シェーンベルク)
・厳格でアカデミックな硬さの中にも、必死にもがき、何かを訴えかけてくるような切実さ、情念を強く感じさせる作品が多い。ブラームスのスタンスや作風を、20世紀前半流にモダナイズしたのが、十二音技法時代のシェーンベルクだといえるかもしれない。
「もしも芸術ならそれは万人のためのものではなく、もしも万人のためのものならそれは芸術ではない」(シェーンベルク)
・他方、ストラヴィンスキーは、新しい様式の開拓という方向性に見切りをつけ、古い様式を新たな手法で再構成するという作風にシフトしていった。
・ロシア、フランス、アメリカを転々とした「ボヘミアン」たるストラヴィンスキーには、伝統の担い手などという自負は全くなかった。シニカル・客観的なスタンスで音楽(史)と向き合ったと考えられる。
・また、折しも、未曾有の惨禍をもたらした第一次世界大戦の影響により、ヨーロッパ社会はボロボロに疲弊していた。これにより、新作の演奏にあたっても、予算・人員等の制約が生じるようになった。簡素な作風の新古典主義は、こうした現場の要請にもマッチするものであった。このような外的要因も、新古典主義を後押しする追い風となった。
「芸術は監督され、制限され、加工されることが多ければ多いほど自由になる」(ストラヴィンスキー)
・新古典主義時代のストラヴィンスキー作品は、一見すると、古風で簡素な軽い音楽のように思える。しかし、その実、奇怪なリズムと楽器法による独自のスパイスが散りばめられた(ストラヴィンスキーの「顔」が刻印された)、シュールで騙し絵的な面白さがある。
「優れた芸術家は真似などしない、盗むのだ」(ストラヴィンスキー)
・音楽史に翻弄されながら苦闘を続けた、生真面目なロマンチストのシェーンベルク。かたや、時代状況やニーズを的確に捉えて奇策を展開した、皮肉屋でリアリストのストラヴィンスキー。二人の人生観・音楽観は、そもそもからして全く相容れないものだったといえる。
・後掲の各ヴァイオリン協奏曲(いずれもソリストはヒラリー・ハーン)を聴き比べてみると、二人の作風の違いは「一聴瞭然」である。新しい音楽を目指しながら、ロマン派由来の感情表現が濃厚なシェーンベルク。かたや、古い音楽を再利用しながら、ウェットな感情表現を一切拒絶するストラヴィンスキー。この「システムと感情」とでもいうべき問題は、後進世代の美学論争においても極めて重要な論点となる。
【後世への影響】
・シェーンベルクの弟子ウェーベルンによる一連の作品は、第二次大戦後のヨーロッパ前衛音楽シーンの源流となった。
・同じくシェーンベルクの弟子ケージは、戦後アメリカ実験音楽の開祖となった。
・1950年代以降、ヨーロッパ前衛音楽を代表するブーレーズが、アメリカ実験音楽を代表するケージとの間で、当初築き上げた美しい友情を崩壊させ、激しく対立することになる。
・シェーンベルクの死後、ストラヴィンスキーは自作に十二音技法を用いるようになった(彼流に言えば「盗んだ」)。同じ十二音技法を使っていても、シェーンベルクの作品が情念的で粘っこいのに対し、ストラヴィンスキーの作品はどこまでも冷たくドライなのが面白いところだ。
・新古典主義時代のストラヴィンスキーは、同時代のヒンデミットやフランス六人組らの作風に影響を与えた。また、間接的な影響としては、ストラヴィンスキーの支持者である名教育者N.ブーランジェが、コープランド、カーター、ピストンらを育成したこと等が挙げられる。
・ただし、新古典主義は、1950年代以降、創作の主流から外れるようになっており、その意味で、後世への影響力が強いとは言い難い面がある。
・しかしながら、ストラヴィンスキー流の新古典主義の発想(素朴な進歩史観に対する懐疑)自体は、前衛音楽が停滞に陥る1970年代以降のポスト・モダンを50年以上先取りするものであったと評価できる。
【聴き比べ】
・後期ロマン派時代のシェーンベルク「浄夜」(1902年初演)
・表現主義時代のシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」(1912年初演)
・十二音技法時代のシェーンベルク「ヴァイオリン協奏曲」(1934-1936年作曲)
・原始主義時代のストラヴィンスキー「春の祭典」(1913年初演)
・新古典主義時代のストラヴィンスキー「ヴァイオリン協奏曲」(1931年作曲)
・十二音技法に転向したストラヴィンスキーの遺作「レクイエム・カンティクルス」(1966年初演)