ハイドン VS ベートーヴェン【音楽史を作ったライバル達③】 - 弁護士法人フィクショナル・公式ブログ(架空)の続き
【時代と場所】
19世紀後半のドイツ語圏
【登場人物】
リヒャルト・ワーグナー(1813年5月22日 - 1883年2月13日)
ヨハネス・ブラームス(1833年5月7日 - 1897年4月3日)
【対立の概要】
・保守派の音楽評論家として名を馳せたエドゥアルト・ハンスリックという人物がいた。
・ハンスリックは、19世紀中頃から、新聞や著作において、ワーグナーら革新派の音楽を痛烈に批判した。
・ハンスリックは「音楽は感情を表現するもの」という当時の一般的な価値観を全面的に否定した。
音楽の独自性は形式それ自体にあり、音楽は音楽そのもの以外の何物をも表現しないというのが彼の主張であった。
文学や言葉と強く結びついた標題音楽やオペラを否定し、古典的な形式美を備えた絶対音楽の優位性を主張した。
・ハンスリックら保守派の理想を体現する作曲家として白羽の矢が立った人物こそ、ブラームスであった。
・19世紀後半のドイツ・オーストリア楽壇において、革新的なワーグナー派(ワーグナー、リスト、ブルックナー等)と保守的なブラームス派(ブラームス、シューマン等)の対立・論争が激化していった(といっても、作曲家達自身よりも、その取り巻きや評論家等が主に争っていた)。
【対立の背景】
対立の核心は一言でいえば「ベートーヴェンの後継者は誰か?」であった。
ベートーヴェンは交響曲をある種の「デッドエンド」へと導いた。
従来の交響曲から大幅に規模を拡大した第3番、主題労作による形式論理とドラマ性を突き詰めた第5番、そして、大管弦楽に独唱・合唱を導入して歌との融合を果たした第9番。
ベートーヴェンは交響曲というジャンルを一人で拡張・解体してしまったのである。
その後、メンデルスゾーン、シューマンら名だたる後進達が果敢に交響曲創作に挑んだ。
しかし、いずれもベートーヴェンの正統な後継者と評価されるまでには至らなかった。
ワーグナーら革新派は、交響曲を「古いジャンル」として早々に見切りをつけ、新たなジャンルを開拓していった。
ワーグナーは、ベートーヴェンが第9で築き上げた世界の進化系として、楽劇(文学・舞台・音楽の総合芸術)を創始した。
また、リストは、文学的・絵画的な内容を表現する管弦楽曲のジャンルとして、自由な形式による交響詩を創始した。
少なからぬ人々が「交響曲の歴史はベートーヴェンで終わった」と思っていたのだ。
そんな中、保守派のブラームスは、ベートーヴェンが築き上げた交響曲の世界を、伝統的ジャンルとして様式化してみせた(といっても、偉大な先人に対するプレッシャーから、交響曲第1番の創作にあたっては、着想から完成まで21年もの時間をかけている)。
ブラームスは、ウィーン古典派のみならず、バッハ以前の古いバロック音楽の様式まで研究し、ドイツ民謡をもインスピレーションの源とした。そうした古式な鋳型にロマン派的感情表現を流し込むという作風を確立したのである。
このように、ワーグナーとブラームスのスタンスは全く異なるもの(というより正反対)であった。
しかしながら、いずれもベートーヴェンを深く尊敬し、自らがその後継者たらんとした(そして真の後継者と自負していた)という点においては、実のところ軌を一にしていたのである。
【後世への影響】
ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲に用いられた「トリスタン和音」は、後世の作曲家達に多大な影響を与えた。
「トリスタン和音」は、和声進行上の機能を担うものではなく、ある種の雰囲気を醸成する音響効果として用いられている(20世紀の無調音楽や、ひいては音響作曲等の前衛音楽の萌芽とさえ評価できる)。
ワーグナーのフォロワーには、マーラーやR.シュトラウスなどビッグネームが並ぶ。
他方、ブラームスのフォロワーは、イェナーやレーガーといささか地味である。
また、ブラームスの後世への影響についても、一言で分かりやすく説明できるようなものはなく、やはり地味だ。
しかし、ブラームスによる「クラシック音楽の伝統芸能化」という功績は、現在に至るまでクラシック音楽創作・演奏の核を成している。
「クラシック音楽が伝統芸能であること」など、今日ではあまりに当たり前のことなので気が付きにくいのだが、実のところこれは物凄いパラダイムシフトだ。
例えば、ワーグナーは「自分が死んだ後に自分の作品が演奏されたって何の意味もない」という趣旨の言葉を残している。
ベートーヴェンの後継者たらんとしたのも、現世的な成功のためであって、そこに伝統の担い手という意識はなかったものと見ることができる(だからこそ、彼は交響曲に見切りをつけ、楽劇という新しいジャンルで成功しようとした)。
ちょうど現代のポップスのアーティスト達と同じく、当時のクラシック音楽の作曲家達も、リアルタイムの時流に乗ったヒットを飛ばすことを目指していたのだ。
しかし、ブラームスは違った。
交響曲をはじめとする「古いジャンル」を伝統芸能化し、自身をその担い手として位置付ける戦略をとってみせた。
それはちょうど現代における歌舞伎や日本舞踊等の家元的な発想である。
もし現代に「レトロ風バンドミュージックを披露する徒弟制の流派を開きます」などというミュージシャンが現れたとしたら、とても正気の沙汰とは思えないだろう。
ブラームスはそれをやってのけたのだ。
彼こそは、保守反動タイプの作曲家として功成り名遂げた音楽史上初めての人物だと言ってよい(ここで「ブラームスの前にバッハがいるではないか」という反論が聞こえてきそうだが、この点については後述)。
これはブラームス自身の偉大さのみによるものではなく、歴史状況も彼に味方したと言えるかもしれない。
ちょうど19世紀後半は、リアルタイムの新作だけでなく、過去の名作も演奏会で取り上げられるようになった時代でもある。
その先駆例として重要なのは、1829年にメンデルスゾーン指揮により復活演奏されたバッハの「マタイ受難曲」だ。
バッハは、存命中に成功したとは言い難い保守派のローカル作曲家であった(かつては息子達の方が大作曲家扱いされていたほどであり、死後は長らく忘れ去られていた)。
そんな彼が、マタイの復活演奏を境に、ドイツ音楽の偉大なる伝統の源泉として、一般にも高く評価されるようになったのだ。
このこと(伝統を評価する一般聴衆の存在)が、ブラームスを大いに刺激し、「クラシック音楽の伝統芸能化」を後押ししたと考えることはできそうだ。
(ところで、ドイツ・オーストリアの楽壇で猛威を振るった一連の論争・対立の顛末だが、20世紀開始早々、シェーンベルクの「浄夜」初演によってあっさりと止揚・無効化されることになる。)
【聴き比べ】
ワーグナー「楽劇『トリスタンとイゾルデ』」より「前奏曲」と「愛の死」(1865年初演)
シェーンベルク VS ストラヴィンスキー 【音楽史を作ったライバル達⑤】 - 弁護士法人フィクショナル・公式ブログ(架空)へ続く