弁護士法人フィクショナル(架空)

架空の国の架空の弁護士によるブログ

言葉とは道具である③

言語学においては、「言葉は道具である」という考え方は、古臭くて素朴な誤った言語観と考えられているらしい。

大抵は否定的な文脈で「言語道具説」や「言語道具観」などと呼称されているようだ。

 

興味本位で関連する論文や書籍などを読んでみた。

しかし、どうも納得できない。

やっぱり私には「言葉は道具である」という強い実感がある。

素人なりにウィトゲンシュタインソシュール関連の本を読み、法律実務に携わり経験として培ってきた私の言語観だ。

 

例えば、以下の論文では、ソシュール以前の言語観として「言語道具観」なる考え方が紹介されている(ただ、私が考える「言葉は道具である」とはだいぶイメージの異なる考え方のような気はする)。

https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/record/15459/files/AA11599551_38_11.pdf

この論文では、以下のとおり「言語道具観」が否定されている。

いわゆる「言語論的転回」に至るまで、言語はラベルであるとして、コミュニケーションの道具だと考えられていた。しかし「言語論的転回」以後、そのような見方が逆転し、まず言語があって、事実や概念はすべて言語から発していると考えられるようになった。

しかし、「事実や概念はすべて言語から発している」として、それによってなぜ「言葉は道具である」という考え方が否定されるのか。

私にはさっぱり分からない。

言葉がなければ、この世界はフワフワで混沌とした掴みどころのないものになってしまう。

そうした世界をたとえ恣意的にでも区分けしていくのが言葉ではないのか。

何かに色を塗ったり、線を引いたりするとき、使用する鉛筆やペンのことを我々は道具と考えるはずだ。

それと一体何が違うというのか。

 

さらに意味のわからないことがある。

国語学者時枝誠記は、ソシュールの言語観を「言語道具説」と捉えて批判を展開したらしいのだ。

時枝誠記 ソシュール 道具」でネット検索すると、色々な論文がヒットする。

あれ、ソシュールによる「言語論的転回」以降、言語道具説が誤りとされたんじゃなかったの?

もう意味が分からない。

 

そもそもの問題として、「言葉は道具ではない」(あるいは「道具に尽きるものではない」)と言ってみたところで、私にはその有用性が分からない。

 

たしかに、ひょっとすると、私達は言葉を道具として使役しているのではなく、言葉に思考を支配されているのかもしれない。

あるいは、言葉と思考は切り離すことができないのかもしれない。

 

しかし、そのような人間疎外論みたいな主張(「人間は言葉に支配されている」といった主張)を展開することに、何の実益があるのだろうか。

例えば、自動車やスマホは人間を支配していると言って良いかもしれない。

もはや自動車やスマホのない時代に戻ることはできない。

私たちは、自動車やスマホが存在することを前提にこの世界を把握し、生活している。

自動車によって亡くなる人もいるが、自動車を廃止することはできない。

スマホ依存も社会問題だが、スマホを禁止することもできない。

自動車やスマホは人間を疎外しているかもしれない。

しかしだからと言って、自動車やスマホが道具であることは否定し難い。

言葉も然りではないか。

 

言葉はひとたび外部に吐き出すと、話し手・書き手から離れて独り歩きする。

「こういうつもりで話した(書いた)んだ」と後で補足説明することはできるかもしれない。

しかし、そうした補足説明も、ひとたび外部に吐き出せば、やはり独り歩きする。

言葉は自分の自由にならない。

自分に害をなす存在かもしれないが、言葉なしには生きられないし、言葉を使う他ない。

こうした「私とは別個の存在」として、言葉を道具とみなすことは、やっぱりそれなりに有用だと思う。

「言葉は道具である」と考えておけば、色々と気をつけて言葉を上手に使おうとするだろうし。