本来、音楽とは、その時・その場限りで共有される経時的な音響現象である。
奏でれば音はたちどころに消えてしまう。
「音楽する(演奏する・鑑賞する)」こととは、特定の時刻・場所において、刻々と変化する音響現象を、認識・記憶し、一つの有機的な体験として統合する営みに他ならない。
音楽を、時間的・場所的制約を超えて共有することなど、そもそも想定されていない。
世界中のいたるところ、あらゆる時代に、それは素晴らしい辻楽士達がおり、多様な音楽を奏でたことだろう。
しかし、私達は、その殆ど全てを知らない。
ちょうど、世界におけるあらゆる歴史的出来事を、全て体験することができないのと同じように。
大昔、特に古代の音楽がどのように鳴り響いていたのか、おぼろげにすら、今となっては殆どわからない。
(古代ギリシャの「セイキロスの墓碑銘」のような例外はあるものの、やはり実際にどんな音楽が鳴っていたのかは全くわからない。)
その意味で、楽譜の登場という出来事は、音楽史において極めて画期的なことであった。
楽譜を書く・残すこととは、時間・場所の制約を超えて音楽を共有(しようと)する試みに他ならない。
楽譜の誕生は、音楽というものが、西洋人の大好きな「普遍性」を獲得した瞬間であり、「芸術」として恭しく扱われる契機であったといえる。
しかし、当然ながら、楽譜にも限界はある。
楽譜は、縦軸に音高、横軸に時間経過を記載した「グラフ」に他ならないが、その表記はデジタルであり、アナログなニュアンスは記載しきれない。
ここで、ヴィラ=ロボス作曲のショーロスNO.1を聴いてみよう。
まずは、デイヴィッド・ラッセルによる演奏。
続いて、作曲者ヴィラ=ロボス本人による演奏。
この違いをどう言語化すべきものか。
ヴィラ=ロボス本人の演奏は、自由に伸び縮みするテンポと、くだけたリズム、けだるい音色、良い意味での投げやり感、突き放したような感覚、音の一つ一つを丁寧に出すというより、全体の流れに委ねるような弾き方が特徴的というべきであろうか。
ブラジルの酒場やカフェの雰囲気が、眼前にありありと浮かんでくるような気がしてくる。
そのニュアンスは、科学的・客観的・数式的に説明できるものではなく、まやかしめいた「わざ言語」的な言葉でしか言い表すことができない(楽譜に明晰に記載することができない)。
デイヴィッド・ラッセルは、何も間違ったことはしていない。
楽譜に書かれたとおりに弾いている。
音色は磨かれきっており、音符の一つ一つを至極丁寧に扱っていることがわかる。
しかしながら、本来この曲が持っている妖しげな魅力、けだるさ、空気感、香りは感じられない。
滅菌した真空パック詰めの宇宙食を食べるような感覚とでもいうべきか。
無国籍・匿名的な演奏である。
ここに、「楽譜を読んで、解釈して演奏する」という演奏様式・アプローチの限界が見えてくる。
もっと大仰に言えば、西洋的な分析・要素還元主義の限界とでもいえようか。
今後も、どんな時代になったとしても、音楽はその時・その場限りで共有される魔術・呪術であり続けることだろう。