二期会創立70周年記念公演/日生劇場開場60周年記念公演として、三島由紀夫原作・ヘンツェ作曲・宮本亜門演出のオペラ「午後の曳航」(ごごのえいこう)が上演される。
予習のため、ヤング指揮/ウィーン国立歌劇場の音源を聴ききつつ、原作小説も読了。
原作には、夏と冬、海と陸、男と女、昼と夜、大人と少年、英雄と父親、正義と腐敗、理想と現実、生と死……ありとあらゆる二項対立が提示される。
しかし、作中の首領の言葉を借りるならば、「世界には不可能という巨きな封印が貼られている」。
少年達も、英雄も、正義も、理想も、何もかもがこの「世界」の内にあり、「不可能という巨きな封印」の制約に服しているのだ。
そうである以上、「世界」に対する反逆とでもいうべき少年達の企ては、閉じた「世界」の中で起こる取るに足らない出来事でしかない(ハンターハンターのクロロ風に言えば「昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらない平穏なもの」でしかない)。
はなから失敗する他ない試みなのであるが、少年達にはそれがわからない(わかろうとしない)。
少年達が考えるところの本当の「英雄」も、ましてや正しい「理想」も、この「世界」には存在しないし、「世界」の外に打って出ることなど誰にもできない。
何をしようと、どこへ行こうと、いつでもどこでも「世界」は変わらず、平凡・退屈であり続けるのだ。
情景・心象の描写が、そして少年達の哲学的な議論・革命志向が、白熱すればするほど、「世界」の残酷なまでにスタティックで平板な様がかえって鮮明になっていく。
他方で、うんとポジティブな見方をするならば、大人や、父親や、腐敗や、現実さえも「不可能という巨きな封印」の制約下にあるともいえる。
実のところ、これらだって、少年達が悲観するほどには、醜悪極まるものではないのかもしれない。
醜悪を極めることにも「不可能という巨きな封印」が付き纏うからだ。
不完全・不可能なりに、あるいは、不完全・不可能だからこそ、この「世界」も捨てたものではないのかもしれない。