ベルリンフィルには「世界最高のオーケストラ」としての自負がある。
彼らの関心は、自分たちのブランディングにとどまらない。
オーケストラ音楽の在り方・未来ということまで、誰よりも鋭く深く真剣に考えている団体ではないかと思う。
そうしたベルリンフィルのスタンスが如実に現れるのが、首席指揮者選びの場面である。
彼らは、市井の音楽ファンや評論家連中の予想をことごとく裏切る。
必ずと言って良いほど、一番人気、安牌、無難な候補を避け、意表を突いたチョイスをしてくるのだ。
初代のハンス・フォン・ビューロー(1830年1月8日 - 1894年2月12日)が引退してから、このスタンスは決してブレることがない。
※なお、日本語版Wikipediaには、初代首席指揮者がルートヴィヒ・フォン・ブレナーである旨記載されているが、これは明白な誤記である。ソースとして、ベルリンフィルの公式ページを参照されたい。
The beginning | Berliner Philharmoniker
120年以上に及ぶベルリンフィルの「逆張り」ムーブを振り返ってみよう。
・二代目首席指揮者
大本命は…
ハンス・リヒターは、ベルリンフィルと幾度もの客演歴があり、ベルリンの聴衆や評論家達からはよく知られた存在であった。
また、その冷静・端正な作品解釈・指揮ぶりも、高く評価されていた(ちなみに、彼は、20世紀最大のワーグナー指揮者ハンス・クナッパーツブッシュの師匠としても有名である)。
リヒターは、ワーグナーの超大作「ニーベルングの指環」や、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、ブラームスの交響曲第2番・第3番等、数々の歴史的名作の初演も手がけている。
当時の楽壇では、ワーグナー派・革新派VSブラームス派・保守派が「仁義なき戦い」を繰り広げていた。
そんな中で、リヒターは両派閥から重要作品の初演を任されていたのである。
政治・派閥闘争と関係なく、それだけ純粋に指揮者としての実力を評価されていたということだろう。
ビューロー退任後、二代目首席指揮者の最有力株は彼であった。
実際に選ばれたのは…
しかし、ベルリンフィルが二代目首席指揮者に選んだのは、リヒターより12歳若く、ベルリンでの知名度も低いアルトゥール・ニキシュ(1855年10月12日 - 1922年1月23日)であった。
着任当初は、チケットの売れ行きが振るわず、評論家からも「気取り屋」「派手好き」「水準以下」などと評されていた。
しかし、ニキシュは、その魔術のような指揮ぶりとカリスマ性によって、徐々に人気と評価を確立していくことになる。
現代の多くの指揮者が「指揮者は作曲家の忠実なる僕(しもべ)」と信じて疑わないのに対し、ニキシュの価値観は全く違っていた。
彼は「指揮者は作曲家に比肩し得る存在でなければならない」との信念のもと、作曲家本人にさえ想像もつかなかった響き・ニュアンスをオーケストラから引き出して見せた。
あのスーパー偏屈ジジイのブラームスでさえ「あなたのやり方はわたしの考えとは全く違う。でもあなたのやり方が正しい、そうでなくちゃならんのだよ!」などと賞賛したほどである(ちなみに、ブラームスはあまりリヒターの指揮を買っていなかったそうだ)。
チャイコフスキーやブルックナーらも、ニキシュの指揮ぶりを激賞した。
なかでもブルックナーは、交響曲第7番の初演大成功に感謝し、ニキシュを「神の代理人」と呼んで崇拝するほどであった(ブルックナーは、長年理解者に恵まれず、冷や水を浴びせられ続けた遅咲きの作曲家であった。そんな彼にとって、ニキシュのように天才的な理解者・指揮者は、誇張抜きで「神の代理人」に思えたことだろう)。
同時代だけでなく、後進世代においても、ニキシュを最高の指揮者として崇拝・尊敬する同業者は数多い。
「伝説の巨匠」「カリスマ指揮者」「スター指揮者」の先駆的存在といって過言ではない。
堅実だがスター性に乏しいリヒターと比べると、ニキシュを選択したのは大正解だったといえるだろう。
・三代目首席指揮者
大本命は…
ブルーノ・ワルターは、ベルリン生まれで、独墺を中心に活躍する名指揮者であった。
1922年にニキシュが逝去した際、誰もがワルターを本命視していた。
長生きしてくれたおかげで、多くの録音が残されている。
現在でも、その人間的温かみに溢れた演奏を愛好するオールドファンは少なくない。
実際に選ばれたのは…
ベルリンフィルが三代目に選んだのは、ワルターより10歳若い、当時36歳若手のフルトヴェングラー(1886年1月25日 - 1954年11月30日)であった。
ワルターよりも個性・特徴・アクの強い指揮者である。
伝説的な巨匠として、今なお神様のように崇拝する同業者・ファンも多い。
ベルリンフィル特有の重厚で、翳りの濃い、土の匂いがするような、時に凄絶な響きは、フルトヴェングラーが作り上げたものと言ってよいだろう(時代を経るごとに表面的なサウンドは変わっても、根っこの部分は変わらず連綿と続いているような気がする)。
フルトヴェングラーと比較すると、温かみはあるものの、気迫・エゴの薄いワルターのもとでは、ベルリンフィルもあのような鬼気迫る数々の名演は残せなかったかもしれない。
・四代目首席指揮者
大本命は…
フルトヴェングラーが非ナチ化裁判によりベルリンフィルを一時離れている間、レオ・ボルヒャルトが暫定首席指揮者を務めた。
しかし、米軍の誤射により、不幸にもボルヒャルトは就任3か月足らずで急逝してしまう。
次なる暫定首席指揮者を務めたのはルーマニア人指揮者セルジュ・チェリビダッケであった。
チェリビダッケはフルトヴェングラーの薫陶を受けており、その繊細・緻密にして堂々たる演奏は、聴衆や評論家達から圧倒的な支持を集めていた。
フルトヴェングラーの後継者と目され、フルトヴェングラー自身も、チェリビダッケが恒久的な首席指揮者のポストに就くことを望んだと言われる。
実際に選ばれたのは…
専制的で執拗なまでに細かい要求をしたチェリビダッケは、ベルリンフィルのメンバーからしばしば強い反発を受けていた。
対するに、カラヤン(1908年4月5日 - 1989年7月16日)はもっと器用にこのオーケストラと付き合った。
カラヤンは、指揮の極意を乗馬に喩える。
曰く「君が馬を持ち上げてジャンプさせるんじゃない。馬が君を乗せたままジャンプするんだ。馬が塀のところまで来たら、全てを馬に任せて邪魔をするな。ジャンプも感じないようにしろ。そうすれば気が付いた時には塀の向こう側にいるよ。」とかなんとか。
ウィーンフィルの元団員も興味深い証言をしている。
曰く「ある演奏会で、カラヤンは細かいことは言わず、我々の好きなように演奏させてくれた。演奏に満足し、後で録音を聴いてみた際、私は愕然とした。自分達の思い通りに弾いたと思っていたのに、完全にカラヤンの音楽になっていたのだ。」とかなんとか(私の記憶で書いているので、実際の文言はもっと違ったと思う)。
カラヤンは、作品ごとに事細かな指示を行うよりも、どちらかというと、オケの持つ響きそのものや奏法をカラヤン好みにすることに拘った。
1955年にベルリンフィル着任後、カラヤンは、約10年もの時間をかけて、少しずつオーケストラを自分好みのサウンドに変えていった。
フルトヴェングラーの重厚ドイツサウンドを、さらに輝かしく豪奢で刺激的なものに変えて見せた。
カラヤン時代は1989年まで続き、ベルリンフィルは世界に冠たる最強のオーケストラとして栄華を極めた。
20世紀後半のオーケストラは「響きが肥大化していった」などと指摘されるが、その最たる例こそカラヤン/ベルリンフィルだったといえる。
・五代目首席指揮者
大本命は…
ロリン・マゼールは、8歳でプロ指揮者デビューした神童である。
その耳の良さ、異常なまでの記憶力、バトンテクニック等々…才能だけで言えば、古今東西最高峰の指揮者だったといっても良い人だ。
1965年にはベルリン・ドイツ・オペラとベルリン放送交響楽団(いずれもベルリンフィルと同じ旧西側)の音楽監督に就任し、旧西ベルリンの聴衆にとっても馴染み深い存在であった。
また、楽団の個性に合わせて指揮スタイルを調整するだけの器用さも持ち合わせていた。
それゆえか、本来芸風の全く合わないであろうウィーンフィルからも高く評価されていた(ウィンナワルツとは全く縁もゆかりも無いのにも関わらず、ボスコフスキー没後のニューイヤーコンサートをしばらく任されていたほどだ)。
マゼールも周囲も「次期首席指揮者はマゼールに違いない」と確信し、事前に就任記念パーティまで企画・準備するほどであった。
実際に選ばれたのは…
クラウディオ・アバド(1933年6月26日 - 2014年1月20日)の指揮スタイルは、カラヤンとは全く異なるものだった。
民主的であり、自身の考えを一方的に押し付けるようなことはなく、カラヤン以上に楽員の自主性を尊重した。
アバド時代に入り、ベルリンフィルのサウンドは、よりライトでクリアに洗練された小回りの利くものになった。
アバド時代の評価は未だ賛否両論である。
アバド自身「ベルリンフィル時代の自分は、多数の定期公演の対応により疲労しきっていた」という趣旨の言葉を残している。
就任10年ほどで癌に犯され、辞任を余儀なくされた(皮肉なことに、この大病克服と辞任を経て、アバドの芸風は深化していくことになる)。
しかし、新しい時代の舵取りとして、ベルリンフィルの選択には流石の先見性があったと思う。
私が見るに、現代の指揮者達は、以下の4種類に大別できる。
①ブーレーズやギーレンに代表される知略型
現在ではアバドらの③調整型が世界の主流になっている。
調整型は、作曲家と演奏家の架け橋となることを至上命題とし、「指揮者は作曲家の僕(しもべ)」、「演奏家に気持ち良く弾いてもらうのが指揮者の仕事」などと割り切るようなエゴのなさが特徴だ。
ベルリンフィルは、エゴの塊であるあのカラヤンのもとで30年以上活動してきた実績がありながら、後任にアバドを選ぶ決断をした。
それも東西冷戦も終わっていないあの時代(現在のようにボーダーレス化・国際化が進んでいない時代)にである。
指揮においてはアバドのような調整型が、オーケストラサウンドにおいては軽量化・透明化が世界の主流になっていくことを、当時見抜いていたとしたら、その洞察力は相当なものである。
・六代目首席指揮者
大本命は…
ダニエル・バレンボイムは、マゼールと同じく超天才指揮者である。
ベルリン国立歌劇場やシカゴ交響楽団など一流どころの監督を務め、オペラもコンサートも実績十分。
フルトヴェングラーに私淑し、その後継者たらんとしてきた先祖返り型で、独墺ものを得意とする(ということになっている)。
アバド時代を失敗と捉える向きもあったことから、「あの栄光のカラヤン時代をもう一度」とばかりに、先祖返り型の登板が望まれたのはごく自然な流れであった。
実際に選ばれたのは…
サイモン・ラトル(1955年1月19日 - )は、ハイブリッド型の指揮者である。
ラトルの芸風には、これだという特徴や一貫性がなく、その時々・曲によって全くスタイルが変わる。
ブーレーズ、アーノンクール、アバド全員のカラーを持っており、時には、あえて昔の巨匠風の音を鳴らすことだってできる。
ラトル時代の面白い点は、チャレンジングな新しい試みの数々である。
ホルストの「惑星」(「冥王星」付き)、ブルックナーの交響曲第9番(補筆完成版の第4楽章付き)、マーラーの交響曲第10番の全曲補筆完成版等、権威どころが嫌いそうな「色物」の積極的な演奏・録音。
デジタルコンサートの企画、現代物や劇伴音楽(ジョン・ウィリアムズ、トムとジェリーのブラッドリー等)のプログラミング。
他方で、ザルツブルク音楽祭からの撤退によるコンサートオーケストラとしてのカラーの強化等。
結局、ラトル時代は良かったのか?悪かったのか?
この時代を総括するにはまだ時期尚早であり、具体的な評価のコメントは差し控えることにしよう(←何を偉そうに…)。
・七代目首席指揮者(当代)
大本命は…
クリスティアン・ティーレマンは、生粋のベルリン生まれ・ベルリン育ちで、現代のスター指揮者には珍しい歌劇場コレペティトーア出身の叩き上げである。
カラヤンの薫陶を受け、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュに私淑する大物ドイツ人指揮者であり、独墺においては、ラトルよりも高い人気を誇る。
独墺の後期ロマン派が主要レパートリーであり、専制的なスタイルと気難しい性格、重心の低いどっしりとした音作り、時に恣意的ともいえる個性的な解釈など、典型的な先祖返り型の指揮者といえる。
アンドリス・ネルソンスは、同郷ラトヴィア出身のヤンソンスの弟子であり、調整型指揮者の典型・最先端といっても過言ではない。
ウィーンフィルによるベートーヴェン交響曲全集最新版の指揮を務めており、ここでも余計なことはせず、ウィーンフィルに気持ちよく弾かせている。
演奏者側からは、(ティーレマンと異なり)気さくで付き合いやすい人柄と評されることが多く、レパートリーも幅広い。
今もっとも注目・評価の高い若手指揮者の筆頭格だ。
実際に選ばれたのは…
キリル・ペトレンコ(1972年2月11日 - )の選出は、世界中の聴衆・評論家達を吃驚させた。
国際的な名声とは無縁、歌劇場叩き上げの人で、海外での客演も少なく(来日歴はなく)、アルバムも殆どリリースしていなかった。
少なくとも日本では全く「無名」の人であった。
しかし、独墺での彼の評価は非常に高く、まさに知る人ぞ知る「超実力者」である。
とはいえ、ドイツの聴衆も彼の選出にはさぞ驚いたことだろう。
彼の選出時、ベルリンフィルとの共演歴は僅か3回しかなかった。
また、ベルリンフィルとのマーラー6番の公演をキャンセルした際には、自発的に後継者レースを降りたとさえ噂されていた。
非常にシャイな人柄でインタビュー嫌いでもあるが、音楽について語る言葉の一つ一つには、謙虚ながら真摯な熱意が込められている。
歴代類を見ない「アンチ・スター」「アンチ・マエストロ(非巨匠)」ぶりである。
しかし、地味な職人肌かと思いきや、意外なほどに表情豊かでダイナミックな指揮ぶりを見せる人でもある。
少なくとも、知略型や時代考証型ではないと思うが、調整型や先祖返り型とも簡単に割り切れない(専制的ではなく、団員に対する気遣いはあるものの、そのリハーサルは非常に綿密で、細かく厳しいという)。
ベルリンフィルが何を目指してペトレンコを選出したのか、このコンビの行く末がどうなるのか、じっくりと動静を観察し、何よりその音楽を堪能していきたいものである。