弁護士法人フィクショナル・公式ブログ(架空)

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脳腫瘍の摘出から1年

本日は造影剤を注射してのMRI検査。
1年前に脳腫瘍を摘出し、その経過観察のための検査だ。

人生というのはままならないし、何があるのかわからない。
今こうして生きているのが不思議に思えてくる。

もらったこの命、我が人生にどんな意味があるのかは分からない。
事によると、何も意味などないのかもしれない。
しかし、呼吸を止めることができないように、死ぬその時まで、生きることは止められない。
死ぬその時まで、とにかく生きるしかないのだ。
どんなことが起ころうとも。

生きることに悩み、苦しんでしまう原因は、案外単純だ。

一つは、苦痛が専ら外的な要因に由来するものだという誤解である。
苦痛の多くは私たちの心が作り出す作用である。
外的要因はきっかけ・トリガーでしかない。
多くの場合、私たち(の脳みそ)は勝手に「自分で自分の首を絞めて」苦しんでいるのだ。

もう一つの誤解は、私たちが「人生ゲーム」のプレイヤーだという発想だ。
私たちは、自分のことを、自分というキャラクターを操作するプレイヤーのごとく錯覚しがちだ。
しかし、これは誤りである。
私たちはプレイヤーではなく、キャラクターでしかない。
キャラクターとして自分の人生を生きているにすぎない。
ゲームをプレイする人間が「このゲームをやる意味は何なのか」、「ゲームなんかやめてしまおうか」と悩むことは十分にあり得ることだし、意味のある問いだと言える。
しかし、マリオやロックマンが、自分の人生や世界についてあれこれ悩むとして、そのことに果たしてどの程度の意味があるのだろうか。
それは「僕は何者なのか」、「生きる意味は何なのか」、「この世界が存在する意味は何なのか」、「これは実はゲームの世界じゃないのか」という、文字通り単なる言葉の羅列でしかない。
こういう問いに何らかの意義・価値があると思い込んでしまうのは、「私たちは自分の人生の外側に立って俯瞰できるはずだ」という壮大な誤解が原因だ。

私はこれらの誤解を総称して「外側病」と呼んでいる。
「外側病」を完全に克服することは、おそらくできないだろう。
幸か不幸か私たちには想像力が備わっているからだ。
「外側病」にとり殺されないためには、「内側」に凝集していくパワーが必要だ。
「外側病」と上手く付き合う鍵は、今ある「生」に没頭する集中力・活力にあるのではないか。