オチはありません。特に新しい視点でもないかもしれません。
この世は壮大な「おままごと」かもしれない。
最近、学生時代の知人2名のブログを見つけました。
彼らはスタートアップの社長を務めている。それぞれ違う会社で互いに面識もありません。
二人とも何やら小難しい記事を書いています。
彼らのブログを読んでも、どんな業態の仕事なのか、何を目指しているのか、私にはさっぱり分かりません。
ただ、少しだけ分かったのは、彼らは何者かを演じるうちに、演技と素の境界が曖昧になっているっぽいということ。
仕事、家事、育児、趣味、もっと抽象的に言えば人生観・・・少しずつ、これらを形成し、こなしていくことで、何者かになろうとし、なっているのだ。
学生時代の彼らを知る私としては、いささか滑稽に感じられる。
「意識高杉ワロティヌス」である(死語)。
しかし、翻って、学生時代や子ども時代の私を知る人も、私のブログを読んだら、何か「うすら寒い」感覚に襲われることだろう。
「らしくない」し、何かっこつけてんだと思うだろう。
幼稚園時代、私はあまりに「遅れていた」ので、普通学級への進級を危ぶまれていた。
学生時代も、多動と問題行動が中々収まらなかった。
今では、人前では一応「先生」然として振る舞うことを求められているので、そのように行動している。
これが「なりたい自分」なのかは分からないが、そのように日々演じている。
しかし、どこまでが演技で、どこからが素なのか、もはや皆目分からない。
私も「社長」の彼らと同じ穴のむじなだ。
犯罪者やヤクザなんかも結局は同様だと思う。
「この世は所詮壮大なおままごと」と思うと、気の滅入るような問題や心労が、少しは楽になるかもしれない。
皆、生まれたてのときは「素っ裸の小人」だったのだ。
何らかのシガラミから「誰か」を演じているだけだ。
そんな人たちが寄り集まって社会が成り立っている。
「おままごと」だ。
そう考えれば、悩みもすこ~しばかりは小さく思えてくる気がする。