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ドレミの外では何もできない

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晩年のピエール・シェフェールのインタビュー。

ユリイカ1998年3月号掲載。

1940年代後半、クラシック音楽界を席巻した十二音技法に対抗すべく、ミュージック・コンクレートを創始した人物だ。

音楽一家の生まれで、伝統的な音楽の素養・理論にも習熟していたようだ。

しかし、彼は伝統の「ぬるま湯」に安住することを良しとしなかった。

かといって、十二音技法の非音楽的なアイディアにも共感することはできなかった。

シェフェールが創始したミュージック・コンクレートは、最新テクノロジーを駆使して「ドレミの外」に活路を見出す試みであった。

 

彼は自身の創作と生涯をこう総括している。

残念なことに、四〇年もかかって出た結論はといえば、ドレミの外では何もできないということだ……いい換えれば、私は自分の人生を浪費したのさ。

なんとも悲劇的な敗北宣言だ。

 

音楽でもシンセサイザーやテープレコーダーなど、新しいものが生まれているが、私たちにはまだ自分の感受性、自分の耳、頭の中には古い和声構造が残っている-私たちはまだドレミ生まれなんだ-決定するのは私たちの任ではない。

新しい「音楽」を発信しても、受信する私たちの脳味噌は太古の昔から変わらない。

その脳味噌が「音楽」と感じてくれなければ、その音は音楽ではないということだ。

 

音楽の世界は、おそらくドレミの内側に含まれているんだよ。しかし、私の考えでは、音の世界はそれよりもはるかに大きなものだ。

(中略)

音を集める仕事をしているミュージック・コンクレートは、音響作品、音響構造を生み出すが、音楽は生み出さない。音響構造でしかないものを音楽と呼んではなるまい……。

音響構造と音楽の違いは何なのか?

シェフェールはこう答える。

音響作品の問題というのは、劇的なものと距離をおいていることに尽きる。

(中略)

ダイナミックで運動感覚的な印象を含んでいる。だが、それは音楽ではないんだ。

劇的なもの、何らかの感情的なストーリーが伴うものを音楽であると、彼は考えるらしい。

 

残された希望は、私たちの文明がある時点で崩壊することだ、歴史が常にそうだったように。野蛮な状態を過ぎれば、ルネッサンスだ。

これは随分と前時代的な歴史観だ。

シェフェールは、このインタビューの中で、やれレヴィ=ストロースだ、やれ構造だとのたまっている。

しかし、その割には、素朴な歴史観進歩史観からは抜け出せていないようだ(レヴィ=ストロースは、楽天的な進歩史観に立つサルトルを、ボコボコに論破したことで有名だ)。

 

私は音楽にたどり着けなかった-私が音楽と呼ぶものにはだ。私は自分のことを、極北へ向かう道を求めて悪戦苦闘していた探検家だと思っているが、その道を見つけることはできなかったんだ。

(中略)

抜け道はない。抜け道は私たちの後ろにあるんだ。

 

インタビュー全文は難解な語彙が多用され、一文も長く、論旨を正確に掴むことは困難だ。

しかし、上記のシェフェールの言い分自体は、至極常識的・一般的な価値観に根ざしているように思える。

シェフェールの耳と感性は伝統的・常識的なそれだったのだ(彼に言わせれば人間は皆そうだということになるが)。

そんな彼が、優秀な頭脳と開拓精神を持って生まれてしまったこと、戦後前衛の台頭という特殊な時代を生きてしまったことが、「非音楽的活動」に身を投じる悲劇に繋がってしまったわけだ。

知性と時代の要請によって創作を続けながら、彼の素朴な耳と感性は「こんなのは音楽ではない!」と苦しみ続けたのだ。

学生運動に身を投じたかつての左翼青年を思わせる。

なんと痛ましく悲劇的な人生か。