弁護士法人フィクショナル・公式ブログ(架空)

架空の国の架空の弁護士によるブログ

山崎晃嗣の場合

何か強力な信念を持った人というのも、自殺しやすいように思う。

信念が危機に晒されたとき、自らを「無」に帰すことで、その信念を守ろうとするのだ。

 

光クラブ事件の山崎晃嗣を思い起こす。

戦後間もない混乱期、東大生の闇金社長として悪名を馳せるも、多額の負債を抱えて服毒自殺した人物だ。

 

「『合意によるものは拘束さるべし』以外の道徳は一切守らない」などと断言して憚らなかった彼は、死に際に以下の言葉を残している。
(※ソースによって微妙に内容が異なる)

 

「私の合理主義をもってすれば、人間と人間の関係は『pacta sunt servanda(合意は拘束さるべし)』という国際法の根本原則で割り切れる。支払うことを合意して契約した以上、私は債務を履行すべく拘束されている。この拘束を免除するのは事情変更の原則だけである。(中略)契約は人間と人間との間を拘束するもので、死人という物体には適用されぬ。私は私の理論的統一のために死ぬ。(以下略)」

 

「合理的」「論理的」「天才」を自称していた彼の上記言い分に対し、無粋も無粋な「死体蹴り」だが、マジレスしてみよう。

 

「合理主義」とはなんだろうか?
「私の合理主義」と断っているので、山崎なりの用法と言ってしまえばそれまでだが。
あえて考えてみよう。
後に書かれた内容とのつながりを考えると、いわゆる「損得勘定を重視する」意味合いの「合理主義」ではなく、「人間の理性を信仰する」意味合いの「合理主義」をいうと推測できる。

 

「この拘束を免除するのは事情変更の原則だけである」
はい、ダウト!
準消費貸借契約の締結や契約の更改によっても、「この拘束を免除する」ことは可能だ。
再度の合意や、これに向けた交渉を行うことは、法的にも倫理的にも何ら問題はない。
(なお、破産という選択肢も考えられるが、山崎の場合はたぶん免責不許可になるだろう)

 

・・・しかし、これでは身も蓋もない。
山崎の言い分を善解してみよう。

 

おそらく、山崎は、再度の合意は、「私の合理主義」言い換えると「理性的な存在としての私」に反する行いであり、山崎としては許しがたいことだ、とでも言いたかったのだろう。
再度の合意をするということは、当初の合意の修正に他ならず、当初の合意時点で物事を先々まで見通せなかったという「無能(彼が考えるところの)」を証明する「愚行(彼が考えるところの)」に他ならない。
再度の合意をしてしまえば、その合意をした「私」は、もはや「理性的な存在としての私」ではなくなるということを意味する。
これは「私の合理主義」に反する。

 

ただ、「事情変更の原則」を持ち出すのは、大袈裟に過ぎるんじゃないの?とは思う。

一般的には、契約当事者が死亡したからといって、「事情変更の原則が適用される」などとは考えない。
そんな条文に記載のない「ウルトラC」を持ち出さずとも、民法の条文に処理が明記されているからだ。

契約当事者が死亡した場合、契約当事者が負っていた債務は、原則として、相続人が承継するか(現行民法882条、896条本文)、相続人がいなければ、相続財産法人に帰属することになる(同951条)。

山崎が自殺すれば、山崎の返済義務は、山崎の相続人又は相続財産法人という別人格が引き継ぐことになるわけだ。

 

「契約は人間と人間との間を拘束するもので、死人という物体には適用されぬ」
前述のとおり、山崎の返済義務は、山崎の相続人又は相続財産法人という別人格が引き継ぐことになるので、これは余事記載(意味のない記載)だ。
また、「人間」や「物体」は、契約法の用語使用としては不適切だ。
正しくは、「人間」ではなく「人」であり(現行民法第一編第二章)、「物体」ではなく「物」だ(同第四章)。

 

それと、根本的なツッコミになるが、そもそも、人は神ならざる不完全な存在だ。

人による契約は、必ず履行されるとは限らない。

何人(なんぴと)も、相手方による契約不履行のリスクを負っている。

何人(なんぴと)も、相手方による契約不履行のリスクも考慮したうえで、契約するよう強いられているのである。

山崎が返済義務を果たさなかったとしても、山崎を道義的に非難することには何の意味もない。

債権者としては、山崎による契約不履行を想定して、何らかの債権回収手段(担保)を確保しておくべきなのである。

それができなかったのであれば、債権者は契約不履行のリスクを引き受ける他ない。

ただそれだけのことだ。

契約には、その程度の意味しかないのだ。

 

全体としてみると、山崎の遺した言葉は、「論理的」というよりは、いささかポエティック・ナルシスティックな「信仰告白」とでもいうべきものだ。


法的な文章としては誤り且つ大仰に過ぎるが、痛ましくもドラマティックな魅力を湛えている。