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佐村河内守&新垣隆・交響曲「HIROSHIMA」


佐村河内氏がYouTubeで自作曲を公開している。
今度こそ正真正銘の自作なのだろうか。はたして。
MALLEVS MALEFICARVM - YouTube

今にして思うと例の「ゴーストライター騒動」は、様々な興味深い問題を含んだ面白い事件だったと思う。
騒動から7年。周回遅れも甚だしいが、例の交響曲第1番「HIROSHIMA」について色々と思うところを書く(超長文)。

交響曲第1番「HIROSHIMA/現代典礼」《全曲映像版》(佐村河内守/新垣隆) - YouTube

1.「HIROSHIMA」は歴史に残るような名作なのか?
当初、本作は「被爆二世の天才全聾作曲家が心血を注いだ渾身の力作」といった触れ込みから、一大センセーションを巻き起こしたものの、一転、「偽りの感動エピソードでゴリ押しされた紛い物」とみなされて以降、音楽界から抹殺・黙殺されるに至って久しい。
仮に本作にこのようなストーリー・レッテルが一切付き纏わなかったとしたら、その評価はどうなっていただろうか?
本作のベースはチャイコフスキーマーラーだ(騒動前は「全然似てない」「全く独自だ」と評する人もいたようだが、前者の悲愴交響曲や後者の交響曲第3番等の影響は顕著だ)。
上記二者のキメラに、少しばかりニールセンやメシアン等の近代風のスパイスをふりかけたような音楽だと思う。
「先達の亜流」ということで、高く評価されることはなかっただろう。
たしかに、音楽史を振り返ってみると、既に新しい音素材や様式といったものは開拓され尽くしてしまって久しい。
実際、80年代以降の作曲家達は(多分クラシックに限らず)、新しい音楽など全く作っていない。
その意味では、「HIROSHIMA」に限らずあらゆる新作が「先達の亜流」と言えなくもない。
しかしながら、現代の作曲家達は、先達が発明(発見)した音素材や様式を独自の配合・センスでもって組み合わせて勝負している。その「ブレンドの妙」でもってオリジナリティを発揮していると言っても過言ではない。
ポスト・モダンの交響曲で「ブレンドの妙」を堪能できる作品の筆頭はジョン・アダムズの「室内交響曲」だ。
この作品を初めて聴いたとき、頭をトンカチで「ガツン!」と殴られたような衝撃を受けたものだ。特に第3楽章!
シェーンベルクの晦渋な表現主義音楽と、アメリカのドタバタアニメ音楽をミックスさせた「異形」としか評しようがない作品であり、独自の不条理ワールドを展開している。他にこんな音楽などない。
ポスト・モダンの交響曲としての「衝撃度」で比較するならば、「室内交響曲」の圧勝である。「HIROSHIMA」では残念ながら全く相手にならない。本作が歴史に名を残すことはなかっただろう(あくまで我輩の感想・予想でしかないけども)。

2.「HIROSHIMA」は駄作なのか?
しかしだ。我輩はそんな本作「HIROSHIMA」が大好きである。
騒動前は「ヒステリックなファン連中が盛んに誉めたてるキワモノ」くらいに軽視して一回も聴いたことがなかったのだが、後で聴いてみてビックリしてしまった。
「たしかにこりゃあ凄い曲だ!」と思ったものだ。
孤独のグルメ」の井之頭五郎じゃないが、「こういうのでいいんだよ」と言いたくなるタイプの音楽だと思う。
よくある平凡な現代音楽が「一杯2000円以上するよくわからん意識高い系ラーメン」だとすると、「HIROSHIMA」は「正攻法で作った昔ながらの醤油ラーメン」みたいなものだ。
特に素晴らしいのは第3楽章!激烈な苦悩(らしきもの)と狂おしい希望の光(のように思えるもの)に満ち満ちている。聴いていて思わず身震いがして感動してしまう。泣きそうになってしまうのだ。
誰かと一緒に聴くのはとても恥ずかしいタイプの音楽である(正にチャイコフスキーがそんな音楽だ)。
ゲルギエフとかすごく得意そうなタイプの曲だと思う。一度彼の指揮で聴いてみたかった。返す返す残念だ。本作は決して駄作なんかではない。

3.音楽を「正しく」評価することは可能か?
しかしながら、本作は毀誉褒貶に満ちている。
騒動発覚前、一般聴衆だけでなく、少なくない専門家が本作を高く評価していたようだ(三枝成彰氏や吉松隆氏ら)。
他方、音楽学者の野口剛夫氏などは、当初から本作に対して批判的・懐疑的な立場であったそうだ。
また、騒動発覚後には、指揮者の大野和士氏などが本作への批判を述べるようになっている(後出しジャンケン乙といえよう)。
結局、「HIROSHIMA」は名作なのだろうか?はたまた凡作なのだろうか?

音楽作品の評価というのは実は非常に難しい。難しいというか「正しい評価」なんてものはありもせず、究極的には「自分が聴きたいものを聴けば良い」という至極陳腐なニヒリズム、価値相対主義になりかねない問題を孕んでいる。
発表当初は高く評価されたもののたちまち忘れ去られた作品や、初演は大失敗しながらも作曲者の死後に評価が高まった作品、時代や評者によって毀誉褒貶の激しい作品、数百年を経ても正しく評価されているか怪しい作品・作曲家等、枚挙に暇がない。

たとえば、モーツァルトの過大評価という問題。モーツァルトこそは、同時代の他の作曲家達から抜きん出た圧倒的な天才かのように評されることがよくある。しかし、長らくモーツァルトの真作として親しまれたヴァイオリン協奏曲第6番や子守歌などは、現在では偽作と考えられている。歴史に名だたる音楽家たちも見分けることができなかったのだ。モーツァルトの作風が真に独自で天才的なのであれば、このような間違いが起きるはずはない。また、かつて父親のレオポルトが作った交響曲モーツァルト作と誤って断定した研究者もいた。現在でも、レクイエムの真作部分や協奏交響曲変ホ長調の真贋問題について、自信と根拠を持って正解を導き出せる人などいるのだろうか。

マーラーによるブラームス交響曲評も興味深い。現在では傑作としての評価を確立しているブラームス交響曲第4番だが、これを聴いたマーラーは「空っぽな音の桟敷」などと酷評している。この言葉があの天才マーラーによるものだと知らなければ「お前とんでもない音痴じゃないのか?」と聞き返したくなるレベルのミスジャッジだ。

春の祭典」に対するサン=サーンスの評価も面白い。今や「春の祭典」といえば20世紀を代表する傑作であり、後進の作曲家たちに与えた影響は計り知れない。ところが、サン=サーンスは有名な冒頭のファゴットソロの部分を聴くや否や「楽器の使い方を知らない人間の曲は聴きたくない」などとバッサリ切り捨てている。彼ほどの大家でも、この作品の真価を見抜くことができなかったのだ

これらの例の他にも、ロッシーニの評価・凋落・リヴァイヴァルや、ブルックナーラフマニノフショスタコーヴィチやなんかの毀誉褒貶の激しさなど、諸々あげつらっていくとまるでキリがない。

そんなわけで、超一流の作曲家・演奏家・学者・評論家(?)といえども、その評価は必ずしも当てにならない。はっきり言ってしまえば、どんな深遠な考察・論評であろうとも「単なる好き嫌いの問題に対して、それっぽいレトリックで『個人の感想』を述べているに過ぎない」とすらいえるだろう。
じゃあそうした「個人の感想」に全く価値がないかといえば、そんなこともない。素養豊かな音楽家の「個人の感想」には、明確な「物差し」があるからだ。それを知ることで、我々素人は「そのような切り口・モノの見方があったのか」と感心でき、鑑賞の幅がグンと広がるし、自分がどんな「物差し」を使っているのかという「己を知る」ことにも繋がる。他人の評価、もとい「個人の感想」というものは、その限度で(しかしながら大いに)参考にすべきだろう(上記した「『HIROSHIMA』は歴史に名を残さなかっただろう」とか「駄作ではない」というのも、あくまで我輩一個人の「感想」でしかない。)

4.「書かされた作品」は「書きたい作品」に劣るか?
新垣氏が自身の名義で発表している作品と「HIROSHIMA」を聴いて、我輩は鳥山明氏と鳥嶋和彦氏(マシリト)の関係を思い出した。
マシリトといえば、集英社Dr.スランプドラゴンボール電影少女、I"sなど多くのヒット作を手掛け、FFやドラクエのプロデュースにも関わった超敏腕編集者である(アラレちゃんの悪役マシリトラッキーマンのトリシマンのモデルとしても有名)。
彼はよく「漫画家自身が描きたがる作品は面白くない」、「描きたい作品ではなく、その人が描ける作品こそが面白い」、「それを描かせるのが編集の仕事だ」という趣旨の話をしている。
実際にも、マシリトによって「描きたい作品」ではなく「描ける作品」を描くよう仕向けられた結果、鳥山明氏や桂正和氏らは上記の名作群を生み出している。
これは案外音楽の世界にも当てはまりそうなことだ。例えば、ハチャトゥリアンのもっとも有名・人気な作品は「剣の舞」だが、あれなど興行主から「戦闘シーンの音楽が追加になったから、一晩で作ってくれ」と無茶ぶりされてヒーヒー言いながら書き上げた作品だ(そんな経緯で出来上がった作品なので、ハチャトゥリアンは「剣の舞」を代表作呼ばわりされることを快く思っていなかったらしい)。
また、ショスタコーヴィチなど「自由に前衛作品を書いた初期と異なり、スターリン体制以降は嫌々ながら体制賛美の作品を書かされた悲劇の天才」などと評されたりするが、そんな彼の代表作は「嫌々ながら」書かされた交響曲第5番だったりする。これなど「今度こそ体制にウケる作品を書かないと粛清されるかもしれない」というプレッシャーのもとで書き上げた作品であり、ロシア・アヴァンギャルドの旗手として華々しくデビューした彼にとっては、忸怩たる思いだったはずである。
新垣氏の作品に関しても、率直に言って、彼名義で発表されている作品(無調音楽であれ調性音楽であれ)よりも、佐村河内名義で作った作品の方が、断然インパクトがあって面白い。新垣氏名義の「交響曲《連祷》」と佐村河内氏名義の「交響曲第1番『HIROSHIMA』」を聴き比べれば事は明らかだ。
一連の騒動発覚から7年余りになるが、新垣氏名義の作品で「鬼武者」や「HIROSHIMA」を超えるレベルの作品は未だに現れていない。彼もまた「書きたい作品」よりも「書かされた作品」の方が面白いタイプの作家なのだろう。

5.クラシック音楽は滅んだのか?
この疑問は「恐竜は滅んだのか?」という問いを思わせる。
バッハ、モーツァルトベートーヴェンのような大スター達は既に物故して久しい。
ごく一般の人々が揃って名前を挙げられるような作曲家や作品など、現代のクラシック作曲界には存在しない。
そういう意味で「クラシックはもう滅んだ」という回答が1つ。恐竜はもうどこにもいない。
2つ目の回答が「しょっちゅう蘇ってるよ」というものだ。音楽作品は、音としてこの世に出てこない限り、五線紙や頭の中にだけ存在する概念でしかない。ベートーヴェンモーツァルトが残してくれた楽譜から、いざ音が立ち上がるその瞬間にこそ、まさしく音楽が生まれているではないか。滅んでなどいない。とこういう考え方だ。
いわばホログラムで蘇るティラノサウルスだ(研究が進むたびに、ビックリするほど再現図・再現映像の様子が異なってくる辺りも、古楽研究によく似ているではないか。)。しかし、ホログラムは繁殖を前提としていない。新たな恐竜は生まれてこない。
3つ目の回答は「新しい恐竜はどんどん生まれてるよ」というもの。「従来のクラシック音楽を継承・進化させる形で芸術的な現代音楽というものが生き残っているじゃないか」という考え方だ。しかし、一般聴衆からすれば、不協和音だらけの現代音楽など、怪しげな研究によって無理矢理作り出された醜い鱗の化け物でしかない。一部のゲテモノ好きを除き、一般聴衆はこんな恐竜など期待していない。
4つ目の回答は「今も生きてるよ」というもの。「ポップス、ロック、ジャズ、EDM等、様々なジャンルで生き残っているじゃないか」というものだ。
五線譜(という思考パターン)があり、12音音階からなる音があり、ドミソやシレソといった和声のルールに則って音を配列する…こうしたシステムは全てクラシック音楽の歴史の中で培われたものだ。こうしたシステムを利用して作られた音楽は、クラシック音楽(の子孫)と呼んで差し支えないだろう。
恐竜だって、現代の鳥類となって生き残っているではないかということだ。
・・・う〜ん、どれもしっくりこない!
俺たちは今目の前で生き生きと動くティラノサウルスが見たいんだよ〜!!
「クラシックは滅んだのか?」
現代の聴衆がこんな漠然とした不安を抱えたなか、「HIROSHIMA」は突如として現れたのではなかったか。
21世紀の何の希望もない現代に、後期ロマン派風の、クラシックが最も輝かしかった時代を思わせる力作・新作交響曲が、いま正に目の前で現実の音として立ち現れている。
当時の聴衆達にとって、「HIROSHIMA」は、目の前で威容を見せつけるティラノサウルスの咆哮であったはずだ。

さてあれは本当にティラノサウルスだったのだろうか?

まぁもう二度とその威容を拝めることはなさそうだし、あのコンビも解散しちゃったから、こんなこと考えたってどうしようもないことなんだけどもさ。