弁護士の我松衰です。
先日、我が曰本の兄弟国、日本の都市で痛ましい通り魔大量殺傷事件が起こってしまいました。
遅ればせながら、事件により亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げるとともに、怪我を負われた方々、精神的苦痛を被られた方々の一日も早いご回復を願って止みません。
さて、本件を巡っては「死ぬなら一人で死ね」、「他人を巻き込むな」という意見が多く寄せられているとのことです。
他方で、こうした意見に対しては
「自殺を促す論調は控えるべきだ」
「こうした意見が喧伝されることで、今回の犯人と同様の問題を抱えた人間が『社会は自分に味方してくれないのだ』と感じ、同様の凶行に及ぶキッカケを与えかねない」
「社会は味方であるというメッセージを発信していく必要がある」
といった反対意見が寄せられているようです。
論点としては
「『死ぬなら一人で死ね』という意見を述べることを控えるべきか」
ということになりましょうか。
私は「控える必要はない」と考えます。
私どもは仕事柄、実に様々な人間と接します。
日々痛感することなのですが、今回のような凶行に及ぶ類の輩というのは、そもそも「話が通じる」人間ではありません。
まともな思考回路、精神を持ち合わせていません。
「やばい人達」なのです。
そうした人間に、反対派の高尚な論理が通じるとはとても思えません。
反対派の温かい意見が彼らを救ったり、凶行を防ぐことになるのか、甚だ疑問です。
私達の常識が通じる人間ではないのですから。
そもそも、ネット上等の有象無象の意見に刺激されるような人間なら、もうとっくに凶行に及んでるんじゃないですかね。他の些細なことがきっかけになって。
こういうのって客観的なデータとか数字が示せないので、どうしてもフワッとした意見、感想レベルの話になってきますが。
彼らに必要なのは、早期の(若い段階での)教育と治療だと思います。
早期の教育と治療ができなかった場合、「やばい人達」の矯正はかなり困難です。
それは刑事事件や家事事件等でたまに登場する「やばい人達」に関わった私の実感です。
早期矯正が上手くいかなかった場合、彼らをいかに救済するかではなく、いかにして社会を守っていくかという自衛の視点に、軸足をシフトしていくべきでしょう。
こうした人達が一定数発生するのは、いわば社会が内包する不可避のリスクと覚悟して、防衛策を検討、施行しなければならないと思うのです。
・・・とこの記事を書いている際に、元エリート某が、引き篭もりの息子を刺殺する事件が起こってしまいました。
例の通り魔大量殺傷事件がきっかけとの供述も行なっているそうです。
どうすれば良かったのか、社会の側で何とかする術はあったのか、一体何が正解なのか・・・まだ私にはわかりません。
※この連載はフィクションです。実在の人物、団体及び事件等とは何ら関係がありません。