子供の頃に聞かされてきた数々の「綺麗事」。
・勉強が全てではない
・頭の良さが全てではない
・論理だけでなく、感情も大事だ
実は「綺麗事」ではなく、ある種の「真実」だと、ようやく実感しつつある。
考え方が360度変わった。
180度ではなく、本当に360度だ。
違う考え方にも染まりつつ、色々と経験し、物の本や論文も読んだ上で、納得して原点回帰したのだ。
例えば、IQという指標は大して役に立たない。
数学や自然科学のような高度な論理性が求められる分野においてすら、IQが平均以下の学者が当たり前に存在する。
将棋やチェスのトッププロも同様。
というより、別に珍しくもなんともない。
前者における学術的な成果や、後者におけるレートにおいて、IQの高さは相関がないか弱いそうだ。
数万人のCEOを調べた統計でも、平均レベルの人が多いという結果が出ているそうだ。
こう書くと「じゃあ大切なのはEQなんだな」となりそうだが、そんな単純なものでもない。
人間の能力は余りにも多様であり、定量的な評価にそもそも馴染まないのだ。
また、そもそも「どんな分野」で「何」をするかによって、求められる能力は全く異なる。
IQやEQなんぞは、あんまり役に立たない指標なのだ(障害や苦手を発見する限度では有用な指標だが、何らかの分野における達成度を予測する指標にはなり得ない)。
論理だけでなく感情も大事というのも、本当にその通り。
この仕事をしていると、嫌でもしょっちゅう痛感させられる。
論理的には同じことを言っていても、言い方や態度や根回しの仕方一つで、相手の反応は全く異なる。
相手に対し敬意を持って誠実に接する、けれども、舐めた態度をとられたら毅然と拒絶・反撃する。
私は全く理解していなかったのだが、後輩や部下に指導する時も同様。
論理的に正しいことをズバリ指摘しても、彼ら彼女らには全く響かない。
自尊心を満たしつつ、甘やかしつつ、誘導しなければならない(しかも、誘導に気付かせず、あくまで主体的に選択してると錯覚させねばならない!)。
「ガキじゃあるまいし、『指導していただく』立場の人間に何故そんな配慮をするんだ?!そんな馬鹿なことがあるか?!」と思っていたが、どうやらこれが真実なのだ。
これは論理とか、頭の良さがどうこうとか、議論の上手い下手といった次元の問題ではない。
「相手の立場に立って考える」とか「自分がされて嫌なことはしない」という単純なものでもない。
だって、人によって価値観やバックグラウンドは全然違うのだから。
あくまで、「同じところもあるけど、基本的には自分と違う人間」と理解して、行動しなければならない。
民間就活の場において求められる「人間力(笑)」とか「コミュ力(笑)」というやつだ。
学生時代、文系就職における理不尽な面接の話など友人から散々聞かされた。
体育会的発想、陽キャ、空気読み力……。
そんなものが求められる。
そんなものが「能力」と言えるのか?
超人気企業の内定をもらった学生は「優秀(笑)」などと言われる。
当時の私は「民間企業に文系就職した採用担当の人間って無能が多いんだろうな」と本気で思ったものだ。
しかし、今にして思えば、実に生意気で世間知らずだった。
「人間力(笑)」とか「コミュ力(笑)」という定量的に測れない能力は本当に重要だったのだ!!
こうした考え方は私流の反知性主義だ。
たぶん一般的な用語法とは異なるが、IQとか論理性といった知性の価値を相対化するという意味で、立派な反知性主義だと思う。
こうした反知性主義を受け入れることこそ、逆説的だが本当の知的態度と言えるのではないか。