法令あるいは法律家が「論理的」というのは、真っ赤な嘘である。
完全なる嘘っぱちだ。
あらゆる法令(実体法)の基本構造は
「Aという要件を充足すると、Bという効果が生じる」
という形をとる。
このAとかBという法概念の意味内容は、往々にして明確に定義することができない。
定義には言葉が用いられる。
そこで用いられる言葉にも定義がある。
その定義を構成する言葉についてもさらに定義が存在する……。
このように、法概念の解釈には「定義の無限後退」とでもいうべき根源的・原理的な問題が存在する。
「過失」とか「正当な理由」とか「背信的行為と認めるに足りない特段の事情」といった規範的要件なんぞは、詳細な定義を明らかにすること自体ナンセンスだ(実際的な問題解決の役に立たない)。
実社会の「論理」も法令も、前期ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」が想定するような、純粋で明晰な言語活動ではない。
むしろ、後期ウィトゲンシュタインの「哲学探究」が想定するような、もっといい加減で曖昧な言語ゲームなのである。
法令の内容について、定義によって明らかにすることはできない。
具体的な事例をいくつも積み重ねていく中で、「なんとなくわかった」という状態を作っていくしかない。
こんな具合だから、「それは考えたことなかったわ」というケースに出くわすことはしょっちゅうだ。
しかし、そのときはそのときで、また改めて考えれば良いのだ(ほとんどの法律家がそんな毎日だ)。
法令とか法律家というヤツは、そのくらいいい加減な存在なのだ(であるからして、「論理的な法律家」を自称する輩は、およそ「論理的」とは程遠い、詐欺師か愚か者である)。
プログラムとかAIの世界ではこうはいかないだろう。
いい加減で適当な人間の社会だからこそ「なんとなくわかった」状態で回っているのである。