前回は20世紀前半の管弦楽曲で打線を組んだ。
今回は20世紀後半。
前回よりも激烈に変態的でニッチなラインナップとなってしまった。
しかし、これはこれで魅力的なチームになった。はず。
リードオフは前回同様、ショスタコーヴィチ。だが、今回はどうも様子が違う。
第10番を書いたのは、スターリンの死後間もない頃のこと。
そう、ショスタコーヴィチは「第九の呪い」に打ち勝ち、無事生き抜いたのだ。
しかし、彼の心が晴れることはなかった。
俊足を誇る凶悪な第二楽章は、「スターリンの音楽的肖像」とも評される。
第三楽章以降、自身の名前をもじった"DSCH"(レミ♭ドシ)音型が頻出。終盤の狂ったような連発など、自意識の激しさはまさにトップバッター向き。
「古臭い」、「共産党の犬」などと揶揄されても、我が道を往く謎多き古株選手。
前回エースを務めたストラヴィンスキー。今回はだいぶ様子が異なる。とにかく軽量、ドライで冷たく、小技が光る。
十二音技法も導入している。あれほど忌み嫌ったライバル、シェーンベルクの技法だ。彼が亡くなるや、堂々とパクってみせた。
しかし、完全にストラヴィンスキー・サウンドになっているのだこれが。
齢70を超えての宗旨替え。いやはや恐るべし。
野球選手だったら、年食ってからもしょっちゅうフォームを変えて、監督から白い目で見られていたはず。
3(三):シュトックハウゼン《グルッペン》
異次元の3番打者兼三塁手、なにしろ三人いるのだ。
三人の指揮者と三群のオケで演奏、場面によってはテンポもそれぞれ異なる。無理ゲーだって!
こんなのよく演奏できるなと、常々不思議でならない。宇宙空間から星々をぶちまけたような圧倒的「異形」の作品。
シュトックハウゼンは、ややイケメンかつナルシスティックであるため、ヒーローインタビューでのコメントが異常に長いタイプだろう。
4(一):ライヒ《テヒリーム》
まさかのミニマルが4番打者。しかし、本作は量産型ミニマル作品とは、一味も二味も違う。というより、次元からして違う。知性、感性、宗教的神秘性の全てが渾然一体となった奇跡の逸品。ライヒ自身も「最高傑作」と自負しているそうだ。
個人的な話になってしまうが、2017年@オペラシティの奇跡的な名演に立ち会えたのは、僥倖と言う他ない。終盤「ハレルヤ」を連呼する場面では涙が止まらなかった。
ただし、「ミニマルを聴いて泣いた」など、現代音楽(前衛・実験系作品)のガチ勢に話したら、間違いなく鼻で笑われる。通っぽくエアプトークを披露したいと考えている読者諸氏は、くれぐれも注意されたし。
5(右):クセナキス《ジョンシェ》
冒頭、ちょっと琉球音階っぽいのが絶妙にグロテスク。
巨大なうねりとなって押し寄せる音群・音塊。
野性的なのだが、民族的とか土俗的とか、もはやそういう問題じゃない。
音の暴力だ、暴力は全てを解決する(白目)。
クセナキスの作品としては、これでもまだ聴きやすい部類なのだから、甚だタチが悪い。
野球選手だったら、バット両手に嬉々として乱闘に臨むサイコパスだったはず。
6(左):リゲティ《レクイエム》
怖い。ミクロポリフォニーという技法が用いられている。20の声部に分かれた合唱は、対位法的に独立した動きをとるが、複雑すぎて聴衆には聴き取れない。意味ねぇ!
しかし、混沌とした一つの音群として、聴衆はそのテクスチャー(質感)の推移を聴き取ることができる。あえて狙ってそのように書いている。たぶん。
演奏は死ぬほど難しいが、ミスっても絶対にバレない。悲しい。
リゲティもしょっちゅうフォームを変える。気質としては、間違いなくストラヴィンスキー先輩の正統後継者。
7(遊):ベリオ《シンフォニア》
パクリとつぎはぎのパッチワーク。いや、これ批判とかレッテル貼りじゃなくて、そういうコンセプトで書かれた作品なのだ。
前回・今回の打線に組み込まれた曲はもちろん、古今東西あらゆる曲からパクっている。
その変態的ひねくれぶりと器用さは、遊撃手にぴったりだろう。
8(捕):ケージ《ピアノと管弦楽のためのコンサート》
偶然性の技法で書かれた作品。楽譜の指示にちゃんと従って演奏すると、毎回全く様相の異なる音楽が立ち現れるようになっている。
作品名を伏せて演奏されてしまうと、この曲だとはたぶん分からない。再現性ゼロ。
捕手としては、サインの意味があやふやで、配球も運次第(致命傷)。
しかし、その懐の深さから、チームメイトは受け入れている模様。
9(投):ブーレーズ《プリ・スロン・プリ》
前衛音楽のオーケストラ作品としては、文句なしのエース。精緻にして官能的。
ただし、投手のくせして、捕手との関係は実に微妙。当初は捕手に倣って(対抗して)、独自の偶然性の技法を取り入れていた。それが「売り」の作品だったのだ。しかし、改訂を重ねるごとに、不確定部分を取っ払ってしまった。じゃあもう関係ないじゃん。
ちなみに、作曲家ブーレーズは、両津勘吉のように副業が忙しいためか、欠場も多い。
久々に復帰した際は、メタルクウラみたいに様変わりして周囲を驚かせた(《レポン》の発表)。
控え:この時代の作曲家たちは、まだまだ「時代による試練と淘汰」を経たとは言い難いので、ここでは割愛。
「雑多すぎて考えるのがめんどくさい」とか、決してそういうわけではない。はず。
監督:ラトル
だいたいの作品は器用にこなしてしまう当代の名将。
現代音楽への愛と普及力(スター性)のバランスがちょうどいい。
ただし、陽キャな雰囲気とは裏腹に、意外に知的でねちっこい面がある。見た目で判断して勝手な期待をしてはいけない(戒め)。
ヘッドコーチ:エトヴェシュ
自身が作曲家であり、現代音楽演奏のスペシャリストでもある。現代音楽の指揮法の教育者としても名高い。現場的なノウハウの蓄積はラトルを上回るだろう。
唯一の欠点は、これといった「いじりどころ」がないことくらいか。