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「このような音ではない!」【メタ音楽①】

弁護士の団堂八蜜です。

 

今回はメタ音楽について書きます。

 

私のいうメタ音楽とは

「『音楽とはかくあるべし』という主張を持った音楽」

のことです。

 

興味深い考察対象だと思うんですが、ネットでも書籍でもほとんど取り上げられていません。

 

ネット検索すると「メタミュージック」というリラクゼーション系の怪しげな音楽がヒットするくらいです。

なぜこれが「メタ」なのか私にはよくわかりませんが。

 

あと、物の本を見ると「マーラー交響曲第7番はメタ音楽である」という指摘がなされていたりします。わりと批判的な文脈で。

マーラーには詳しくないので、よくわかりませんが。

 

もっと分かりやすくて、かつ、面白いところだと

 

1.ベートーヴェンの「交響曲第9番第4楽章」

 

2.チャック・ベリーの「ロール・オーバー・ベートーヴェン

 

3.バルトークの「管弦楽のための協奏曲第4楽章」

 

なんかは紛れもなくメタ音楽だと思います。

 

今回は

ベートーヴェンの「交響曲第9番第4楽章」

を取り上げます。

 

どんな感じでメタになっているのか。

 

曲の開始6〜7分頃に、バリトン独唱が登場します。

 

このバリトン独唱の歌い出しの歌詞は

「おお友よ、このような音ではない!」

となっています。

(原語はもちろんドイツ語よ)

(「!」も楽譜にちゃんと書いてあるよ)

 

物凄くストレートに自己言及してます、メタってます。

 

この部分は、一体何の「音(音楽)」を否定しているのか。

 

色々な解釈があり得るところです。

 

一般的によく言われるのは

「第1~第3楽章の否定」

です。

 

そのように考えられる根拠は

 

・第4楽章では第1〜第3楽章の主題(楽章のなかで中心となる旋律)が回想される。

 

・その度に、チェロバス(チェロとコントラバス)のレチタティーヴォ(喋るような旋律)が、決然とした、何か意味ありげな趣で奏でられる。

レチタティーヴォは①~⑥まであり、第1~第3楽章の回想に対しては、レチタティーヴォ③~⑤が応答する)

 

・その後に登場する「おお友よ、このような音ではない!」の旋律は、レチタティーヴォ①の変形(①')になっている。

 

・このことから、先のレチタティーヴォが、実は第1〜第3楽章に対する否定であったことが明らかになる。

 

という感じです。 

 

このバリトン独唱には、さらに

「純粋器楽の否定」

という意味も込められていると解釈できます。

 

純粋器楽とは、歌の入っていない楽器だけの音楽(要は「インスト」)のことです。

 

なぜ「純粋器楽の否定」と解釈できるかというと、第4楽章が純粋器楽でスタートしているからです(第1〜第3楽章は全編にわたって純粋器楽です)。

 

単に第1〜第3楽章を否定するのであれば、当初からチェロバスではなく、バリトン独唱に「このような音ではない」と歌わせてしまえば簡単に済む話です。

そのまま「歓喜の歌」の主題を導出し、変奏を行なっていくことだって可能なはず。

 

わざわざ

バリトン独唱が登場した段階で、各レチタティーヴォが実は第1〜第3楽章の否定を意味していたことが初めて明らかになる」

などという面倒な構成にしなくたって良さそうです。

 

ところが、ベートーヴェンは、まずは純粋器楽によって、楽章冒頭に「恐怖のファンファーレ」ワーグナーがそう呼んでいます。私が勝手に名付けたのではありません。念のため。)を置いたうえで、第1〜第3楽章の主題を否定し、歓喜の歌」の主題の導出・変奏を行っているのです。

 

このまま純粋器楽による「歓喜の歌」が続いていくかと思いきや、「恐怖のファンファーレ」の再登場によって、中断されてしまいます。

 

このタイミングで、バリトン独唱が

「このような音ではない」

と歌うのです。

 

一連の流れからすれば

「真なる『歓喜の歌』を歌い上げるためには、純粋器楽では不十分だ、歌(言葉)が必要だ」

と訴えているものと解釈するのが自然でしょう。

 

楽章冒頭では管打楽器のみにより奏されていた「恐怖のファンファーレ」が、再登場の際には、弦楽器群も含めた全楽器群で奏されていることも、注目すべき点です。

 

この再登場した「恐怖のファンファーレ」は、否定すべき、超克すべき対象としての純粋器楽を象徴するものと考えられます。

 

バリトン独唱がこの後

「そうではなく、もっと楽しい歌をうたおう」

「そしてもっと喜びに満ちたものを」

と呼び掛けると、合唱、他の独唱陣が次々と音楽に参加していきます(ちなみに、ここまでがベートーヴェンの創作した歌詞で、以降は全てシラーの詩が使われています)。

 

歌が、言葉が、全楽器群を率いて「歓喜の歌」を高らかに歌い上げていくのです。

 

この「そしてもっと喜びに満ちたものを」の部分は、レチタティーヴォ⑥の後半部分と全く同じ旋律になっています(⑥')。

 

レチタティーヴォ⑥は、歓喜の歌」の主題の断片が初めて登場した際に、チェロバスがニ長調で力強く応答する部分にあたります。

 

「チェロバスが『もっと喜びに満ちたものを』と呼び掛けたことで、全楽器群による『歓喜の歌』が朗々と奏でられていた」ことが、バリトン独唱の登場により初めて明らかになるわけです。

 

と同時に

「チェロバスが「もっとだ!」と呼び掛けて音楽が盛り上がっていったのに、バリトン独唱が「もっともっとだ!!」とさらに煽ってきたぞ!」

合唱や他の独唱陣まで参加して凄いことになってきた!!こりゃあドエライ音楽になるに違いない!!」

という期待感を、否が応でも煽られてしまうという仕掛けになっているのです。

 

何しろ当時は交響曲に歌が(重要な役割を担って)入るなんてことは、とんでもなく常識外れなことだったのですから。

 

第9のコンサートでは通常、「恐怖のファンファーレ」が再登場するタイミングで、それまで座って待機していた合唱陣が一斉に「ザッ!」と立ち上がります。

 

全楽器群が荒れ狂うなか、まるで合唱陣が、純粋器楽の世界に対し、ひいては旧来の因習(交響曲って純粋器楽だから、歌なんて入らないよね〜という伝統)に対し、意を決して立ち向かおうとしているかのようです。視覚的な効果も凄く、思わず総毛立ってしまいます!!

 

当時の聴衆達が受けた衝撃はいかばかりであったろう!!

 

(※ただ、実際の初演で大ウケしたのは第2楽章で、そこだけアンコールで2回も演奏されたそうです。再演時も、第4楽章については「よくわからんかった」的な冷めた反応が多かったんだとか。当時の聴衆に歌入り交響曲は早過ぎたか。)

 

メタ音楽の話、続きます。

 

 

※この連載はフィクションです。実在の人物、団体及び事件等とは何ら関係がありません。