弁護士の団堂八蜜です。
今回はメタ音楽について書きます。
私のいうメタ音楽とは
「『音楽とはかくあるべし』という主張を持った音楽」
のことです。
興味深い考察対象だと思うんですが、ネットでも書籍でもほとんど取り上げられていません。
ネット検索すると「メタミュージック」というリラクゼーション系の怪しげな音楽がヒットするくらいです。
なぜこれが「メタ」なのか私にはよくわかりませんが。
あと、物の本を見ると「マーラーの交響曲第7番はメタ音楽である」という指摘がなされていたりします。わりと批判的な文脈で。
マーラーには詳しくないので、よくわかりませんが。
もっと分かりやすくて、かつ、面白いところだと
なんかは紛れもなくメタ音楽だと思います。
今回は
を取り上げます。
どんな感じでメタになっているのか。
曲の開始6〜7分頃に、バリトン独唱が登場します。
このバリトン独唱の歌い出しの歌詞は
「おお友よ、このような音ではない!」
となっています。
(原語はもちろんドイツ語よ)
(「!」も楽譜にちゃんと書いてあるよ)
物凄くストレートに自己言及してます、メタってます。
この部分は、一体何の「音(音楽)」を否定しているのか。
色々な解釈があり得るところです。
一般的によく言われるのは
「第1~第3楽章の否定」
です。
そのように考えられる根拠は
・第4楽章では第1〜第3楽章の主題(楽章のなかで中心となる旋律)が回想される。
・その度に、チェロバス(チェロとコントラバス)のレチタティーヴォ(喋るような旋律)が、決然とした、何か意味ありげな趣で奏でられる。
(レチタティーヴォは①~⑥まであり、第1~第3楽章の回想に対しては、レチタティーヴォ③~⑤が応答する)
・その後に登場する「おお友よ、このような音ではない!」の旋律は、レチタティーヴォ①の変形(①')になっている。
・このことから、先の各レチタティーヴォが、実は第1〜第3楽章に対する否定であったことが明らかになる。
という感じです。
このバリトン独唱には、さらに
「純粋器楽の否定」
という意味も込められていると解釈できます。
純粋器楽とは、歌の入っていない楽器だけの音楽(要は「インスト」)のことです。
なぜ「純粋器楽の否定」と解釈できるかというと、第4楽章が純粋器楽でスタートしているからです(第1〜第3楽章は全編にわたって純粋器楽です)。
単に第1〜第3楽章を否定するのであれば、当初からチェロバスではなく、バリトン独唱に「このような音ではない」と歌わせてしまえば簡単に済む話です。
そのまま「歓喜の歌」の主題を導出し、変奏を行なっていくことだって可能なはず。
わざわざ
「バリトン独唱が登場した段階で、各レチタティーヴォが実は第1〜第3楽章の否定を意味していたことが初めて明らかになる」
などという面倒な構成にしなくたって良さそうです。
ところが、ベートーヴェンは、まずは純粋器楽によって、楽章冒頭に「恐怖のファンファーレ」(ワーグナーがそう呼んでいます。私が勝手に名付けたのではありません。念のため。)を置いたうえで、第1〜第3楽章の主題を否定し、「歓喜の歌」の主題の導出・変奏を行っているのです。
このまま純粋器楽による「歓喜の歌」が続いていくかと思いきや、「恐怖のファンファーレ」の再登場によって、中断されてしまいます。
このタイミングで、バリトン独唱が
「このような音ではない」
と歌うのです。
一連の流れからすれば
「真なる『歓喜の歌』を歌い上げるためには、純粋器楽では不十分だ、歌(言葉)が必要だ」
と訴えているものと解釈するのが自然でしょう。
楽章冒頭では管打楽器のみにより奏されていた「恐怖のファンファーレ」が、再登場の際には、弦楽器群も含めた全楽器群で奏されていることも、注目すべき点です。
この再登場した「恐怖のファンファーレ」は、否定すべき、超克すべき対象としての純粋器楽を象徴するものと考えられます。
バリトン独唱がこの後
「そうではなく、もっと楽しい歌をうたおう」
「そしてもっと喜びに満ちたものを」
と呼び掛けると、合唱、他の独唱陣が次々と音楽に参加していきます(ちなみに、ここまでがベートーヴェンの創作した歌詞で、以降は全てシラーの詩が使われています)。
歌が、言葉が、全楽器群を率いて「歓喜の歌」を高らかに歌い上げていくのです。
この「そしてもっと喜びに満ちたものを」の部分は、レチタティーヴォ⑥の後半部分と全く同じ旋律になっています(⑥')。
レチタティーヴォ⑥は、「歓喜の歌」の主題の断片が初めて登場した際に、チェロバスがニ長調で力強く応答する部分にあたります。
「チェロバスが『もっと喜びに満ちたものを』と呼び掛けたことで、全楽器群による『歓喜の歌』が朗々と奏でられていた」ことが、バリトン独唱の登場により初めて明らかになるわけです。
と同時に
「チェロバスが「もっとだ!」と呼び掛けて音楽が盛り上がっていったのに、バリトン独唱が「もっともっとだ!!」とさらに煽ってきたぞ!」
「合唱や他の独唱陣まで参加して凄いことになってきた!!こりゃあドエライ音楽になるに違いない!!」
という期待感を、否が応でも煽られてしまうという仕掛けになっているのです。
何しろ当時は交響曲に歌が(重要な役割を担って)入るなんてことは、とんでもなく常識外れなことだったのですから。
第9のコンサートでは通常、「恐怖のファンファーレ」が再登場するタイミングで、それまで座って待機していた合唱陣が一斉に「ザッ!」と立ち上がります。
全楽器群が荒れ狂うなか、まるで合唱陣が、純粋器楽の世界に対し、ひいては旧来の因習(交響曲って純粋器楽だから、歌なんて入らないよね〜という伝統)に対し、意を決して立ち向かおうとしているかのようです。視覚的な効果も凄く、思わず総毛立ってしまいます!!
当時の聴衆達が受けた衝撃はいかばかりであったろう!!
(※ただ、実際の初演で大ウケしたのは第2楽章で、そこだけアンコールで2回も演奏されたそうです。再演時も、第4楽章については「よくわからんかった」的な冷めた反応が多かったんだとか。当時の聴衆に歌入り交響曲は早過ぎたか。)
メタ音楽の話、続きます。
※この連載はフィクションです。実在の人物、団体及び事件等とは何ら関係がありません。