弁護士法人フィクショナル・公式ブログ(架空)

架空の国の架空の弁護士によるブログ

岡口基一さんの罷免を受けて

岡口さんの書籍には、日頃大変お世話になっております。

伊藤塾の専任講師に就任されるとのこと、今後のご活躍を祈念いたしております。

この度の罷免の判断、岡口さんへの不利益が大き過ぎる、余りにも厳し過ぎるとして、法曹界(私の身の回り)では批判の声が多々挙がっております。

他方で、一連の岡口さんの言動により、ご遺族の方々が多大な苦痛を被られたこともたしかです。

法曹は知力ではなく共感力が求められるのかなと、つくづく思います。

法曹の頭脳労働の程度など、たかが知れています。

依頼者を含めた関係当事者への共感力こそ、日々の業務で重要な意味を持つことが多いと感じます。

それは弁護士業のような営利性が絡む業界だけでなく、検察官や裁判官も同様でしょう。

空気の読めない検察官は、人の言動の意味を推測できず、説得的な事件のストーリー構築ができないでしょう。

また、被害者や遺族の神経を逆撫でしてしまい、事件処理に支障をきたすこともあるでしょう。

空気の読めない裁判官も、人の言動の意味を推測できなければ、説得的な判決は書けないでしょう。

また、当事者の心情に配慮したり、建前に隠された本音を探れなければ、和解での事件解決も困難になるでしょう。和解ができなければ、判決書を起案しなければならず、業務負担は多大なものとなります。

私も共感力を磨きつつ、日々の業務に励む所存です。

この世は壮大な「おままごと」かもしれない

オチはありません。特に新しい視点でもないかもしれません。

この世は壮大な「おままごと」かもしれない。

最近、学生時代の知人2名のブログを見つけました。

彼らはスタートアップの社長を務めている。それぞれ違う会社で互いに面識もありません。

二人とも何やら小難しい記事を書いています。

彼らのブログを読んでも、どんな業態の仕事なのか、何を目指しているのか、私にはさっぱり分かりません。

ただ、少しだけ分かったのは、彼らは何者かを演じるうちに、演技と素の境界が曖昧になっているっぽいということ。

仕事、家事、育児、趣味、もっと抽象的に言えば人生観・・・少しずつ、これらを形成し、こなしていくことで、何者かになろうとし、なっているのだ。

学生時代の彼らを知る私としては、いささか滑稽に感じられる。

「意識高杉ワロティヌス」である(死語)。

しかし、翻って、学生時代や子ども時代の私を知る人も、私のブログを読んだら、何か「うすら寒い」感覚に襲われることだろう。

「らしくない」し、何かっこつけてんだと思うだろう。

幼稚園時代、私はあまりに「遅れていた」ので、普通学級への進級を危ぶまれていた。

学生時代も、多動と問題行動が中々収まらなかった。

今では、人前では一応「先生」然として振る舞うことを求められているので、そのように行動している。

これが「なりたい自分」なのかは分からないが、そのように日々演じている。

しかし、どこまでが演技で、どこからが素なのか、もはや皆目分からない。

私も「社長」の彼らと同じ穴のむじなだ。

犯罪者やヤクザなんかも結局は同様だと思う。

「この世は所詮壮大なおままごと」と思うと、気の滅入るような問題や心労が、少しは楽になるかもしれない。

皆、生まれたてのときは「素っ裸の小人」だったのだ。

何らかのシガラミから「誰か」を演じているだけだ。

そんな人たちが寄り集まって社会が成り立っている。

「おままごと」だ。

そう考えれば、悩みもすこ~しばかりは小さく思えてくる気がする。

斜に構えず

ハイテンションでつまらない人を見ても、決して見下してはならない。

 

そんな自分はローテンションでつまらない奴かもしれないのだから。

 

彼がスベっているのは、獲りにいってる証拠。

 

スベってないのは、面白いからではなく、一発も狙ってないからかもしれない。

 

「面白い奴はネクラ」が真だとしても、「ネクラな奴は面白い」とは限らない。

 

あと、面白いかどうかはさておき、ハイテンションな陽キャは大抵良い奴だ。

 

我々陰キャはよくよく自覚しておいた方が良い。

新時代のお笑い三強

千鳥、かまいたちチョコプラは第六世代らしい。強い。

霜降り明星ハナコ、EXITは第七世代らしい。弱い。

経験の差も考慮し、控えめに見ても、第七世代は弱い。

上の世代の亜流の感が否めない。

 

しかし、若い世代にも面白い人達は大勢いる。

私が注目しているのは、春とヒコーキ、ラランド、令和ロマン。

あまり第七世代の括りで取り上げられないメンツだ。

彼ら三者の共通点は、①大学お笑い出身、②非関西人、③活躍舞台の中心がテレビではないところ。

天才肌なのは、くるま(令和ロマン)、サーヤ(ラランド)、土岡(春とヒコーキ)の順か。

キャラが濃いのは、バキバキ童貞ことぐんぴぃ(春とヒコーキ)、クズで嘘つきのニシダ(ラランド)、大金持ちのケムリ(令和ロマン)の順か。

皆良いバランスのコンビだ。

これ、天才肌同士でコンビを組んでいたら、鼻持ちならない感じがしてしまい、人気は出なかっただろう。

他方、キャラの濃い者同士でコンビを組んでも、収拾がつかず、そもそも世間に出ることがなかっただろう。

 

三組とも応援してます!

重箱の隅

声優の佐々木望も、松田聖子も凄いなぁ。

芸能人として活動しながらの入学・卒業、誠に天晴れです。

佐々木望がめちゃくちゃ頭が良いのは知ってました。

松田聖子のことはよく知りませんでした。

私、全然詳しくなくて、この人のこと、歌が物凄く上手いだけで、人間的にアレでチャランポランな人だと思ってました。ごめんなさい。

それにしても、中央大学のそれも法学部をチョイスする渋さよ。

怪しい経歴と人脈だけで早慶に入っちゃうような頭パッパラパーの芸能人や反社みたいな雰囲気の連中とは品格が違いますな。

ただ、私が強烈に違和感を覚えたのが、松田氏のこのコメント。

中央大学で法律を学ぶことができた4年間は、私にとって素晴らしい時間でした。

大変失礼ながら、法学部で学んだ人のコメントとは思えなかった。

普通は「法律」ではなく、「法学」と書くところだ。

資格の勉強なんかの実用や実利を意識する場面では「法律」と言い、アカデミックな性格・含みを持たせるときは「法学」と言う。普通は。

それと、「法律」と言ってしまうと、法哲学自然法はおろか、憲法すら含まれないことになってしまう。

であるからして、私は松田氏の上記コメントに猛烈な違和感を覚えたのである。

「法学」と言わず、あえて「法律」としたのは、松田氏のセンス・拘りなのだろうか?

不可思議だ。

テロリストの処遇の難しさ

先日のモスクワテロ実行犯らに対し、ロシア当局が殴打・電気ショック・耳を切る等の拷問を加えている様子が、映像で流出した。

 

同映像は、当局が意図的に流出させた疑いがある模様。

 

推察するに、テロリストに対する断固たる姿勢をアピールすることで、民衆の支持・求心力を維持する狙いだろう。

 

また、拷問により「ウクライナがテロの黒幕だ」といった供述を強要する狙いもあるかもしれない。

 

さらに邪推するならば、一連のテロ・拷問・裁判の全てが、プーチンらの仕組んだことかもしれない。

 

私や私の家族がテロ被害に遭ったとき、私は絶対にテロリストを許せないだろう。

この手で八つ裂きにしたいと思うだろう。

苛烈な拷問も然るべきだ(ただし、日本国憲法第36条は、公務員による拷問を例外なく一律禁止としている)。

 

しかし、拷問を許容してしまうと、テロリストから真実の供述を引き出すことができないかもしれない。

時の為政者による自作自演を誘発する危険もある(テロを実行させ、拷問により、為政者の考えるストーリーに沿った供述をさせ、戦争・外交に関する世論を誘導するetc.)。

 

大変に悩ましい問題だ。

ポリーニが逝った

20世紀後半の象徴的音楽家が、また一人逝ってしまった。

ポリーニが録音したストラヴィンスキーウェーベルンブーレーズ、どれも素晴らしかった。

ストラヴィンスキーペトルーシュカ

ウェーベルンの変奏曲

ブーレーズの第2ソナタ

とりわけウェーベルンは同曲最高の演奏じゃないかと思う。

来日して弾いてみせたシュトックハウゼンも凄かった。

ノーノ、アバド、そしてポリーニ

先鋭的なイタリア人音楽家の三人衆。

その最後の一人だった。

ご冥福をお祈りいたします。