弁護士法人フィクショナル・公式ブログ(架空)

架空の国の架空の弁護士によるブログ

ベルリンフィルのシェフ達と名作発掘

カラヤンは、当時北欧ローカル色の強かったシベリウスグリーグを積極的に取り上げていた。

また、英国ローカル作品であるホルストの「惑星」を、ウィーンフィルと録音し、同作を一躍人気曲に押し上げた。

今日、シベリウスグリーグ、「惑星」などに当たり前のように親しめているのは、カラヤンの功績が大きい(と思う)。

かつて、カラヤンに対しては「音楽のセールスマン」とか「精神性皆無」とか馬鹿にするのが「通」扱いされていた。

しかし、そんな「音楽のセールスマン」がいてくれたからこそ、我々は「他の演奏も聴いてみよう」と考えることができたわけだ。

カラヤンは豊かな音楽体験の門戸を広げてくれたのだ。

彼がいなければ、私達は、ベルグルンドのシベリウスも、ボールトの「惑星」も、知ることがなかったかもしれない。

 

次代のアバドも同様。

しかし、後続世代ということもあって、カラヤンの頃ほどには、名作発掘の余地は残されていなかったのだろう。

主な功績としては、ロッシーニの再評価と、ムソルグスキー原典版の普及か。

さすがにカラヤンほどのインパクトはない。

 

次々代のラトルになると、いささかマニアックになってくる。

例えば「惑星(冥王星付き)」。

ホルストの作曲当時、冥王星は未発見だった。

発見後、ホルスト冥王星の作曲に取り組むが、半ばにして脳卒中で倒れ、完成させないまま亡くなってしまった。

後世の作曲家コリン・マシューズが追加作曲したのが「冥王星」である。

ラトルはこんな色物まで天下のベルリンフィルと録音している。

(なお、日本で同盤が発売された2006年8月23日の翌日、国際天文学連合総会決議により、冥王星は惑星から外されてしまうという冗談のような後日談がある。このニュースが宣伝となり、同盤の売上げは好成績を記録したという!)

あとは、マーラー交響曲第10番(クック補筆版)とか。

ラトルは同作をかなり積極的に取り上げているようだが、「文句ない名作」として人口に膾炙しているとは言い難い。

もう一つ、私が大好きなものに、ブルックナー交響曲第9番(第4楽章付き)コールス完成版がある。

ブルックナーの死により未完となり、草稿が散り散りとなっていた幻の最終楽章の補筆完成版である。

幻の最終楽章については、色んな補筆完成版がある。

今のところ、ラトル&ベルリンフィルが録音したコールス完成版は、作品・演奏の充実度共に文句なしのナンバーワンである。

広く取り上げられるべき作品と思うが、残念ながら、全然演奏されていない。

ラトルの試みは実験的で面白いものも多いが、少々オタッキーに過ぎるのかもしれない。

 

名作発掘の功績はカラヤン>アバド>ラトルだろう。

後進世代の方が不利なのは仕方ない。

当代のペトレンコはどんな名作を発掘してくれるだろうか。

ジジが喋らない理由が分からない大人達

今晩の金曜ロードショーは「魔女の宅急便」らしい。

もう何回放送しているのやら。

本作に登場する黒猫のジジについては「なんでラストシーンで喋らないの?」と疑問に思う人がいるらしい。

ご存知ない方向けにご説明しますと、主人公で魔法使いのキキは、魔法を使ったり、黒猫のジジと人語で会話したりします。

ところが、あるとき、魔法がうまく使えなくなり、ジジとも話せなくなります。

スランプを乗り越え、最終的には魔法の力を取り戻しますが、ジジとは会話ができないままです。

ラストシーンで、ジジは「にゃあ」と鳴くだけで、人語は話しません。

それを見たキキは、何かを悟ったように微笑みます。

ご存知ない方にはチンプンカンプンかもしれません。

これ、ちゃんと作品を視聴すると、ジジが喋らない理由は至極明快なんですね。

キキが人間的に成長したからです。

精神的に未熟なうちは、お人形相手に自分の心の声と会話する感覚で、キキはジジと接していたわけです。

スランプを経て人間的に成長したことで、キキはジジの声を必要としなくなったんですね。

魔法の力は復活したのに、ジジとは会話できないまま、ということは、ジジとの会話は魔法でも何でもなかったということです。

原作とは違うそうですが、映画においてこの解釈がとられていることは、一目瞭然です。

子供さんならいざ知らず、大人の視聴者ならば、当然理解して然るべきものです。

ところが、大人でもこれが理解できない方が結構いらっしゃるようです。

何でもかんでも詳細・明快に説明しないとダメなんですかね。

そんなことしたら、TVドラマも、映画も、小説も、アニメも、野暮ったくてかなわんですよ。

多くのこんな「分からず屋」どもが、「最近のテレビはつまらない!」、「テロップが邪魔!」、「ワイプが邪魔!」とか言ってるんでしょうか。

誰のせいだと思ってるんでしょうね一体。

天才的素人ムソルグスキー

本日3月21日は、作曲家モデスト・ムソルグスキー1839年3月21日 - 1881年3月28日)の誕生日。

 

ムソルグスキーの家系は、代々軍の要職を得た由緒ある家柄であり、実家は裕福な地主であった。


ところが、1861年農奴解放により、実家の私有地が収奪されてしまい、没落貴族となる。


下級官吏として生計を立てる傍ら、作曲活動を続けた。


しかし、1865年、最愛の母が他界したことをきっかけにアルコール依存に苦しむようになり、晩年には失業。


残した作品も、生前まともに評価されることはなかった(「素人」、「荒削り」、「粗野」などと考えられていた)。


失意のうちに42歳の若さで亡くなっている。生涯独身だった。


代表作は歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」管弦楽曲「禿山の一夜」ピアノ組曲展覧会の絵など。


ムソルグスキーの凄さ・真髄というのは、正直なところ、私にはよく分かっていない。


どうやら「分かる」人には「分かる」らしい。

絵でいうところのゴッホみたいな。

上手いとか、洗練されているとかではなくて、「とにかく凄い」、「異常な天才」らしい。


ムソルグスキーの受容史を見ていくなかで大変興味深いのは、彼と正反対のタイプの天才達の活躍である。


その一人がリムスキー=コルサコフ(1844年3月18日(ユリウス暦3月6日) - 1908年6月21日(ユリウス暦6月8日))。


ムソルグスキーの盟友にして、色彩感溢れる管弦楽法の大家であり、端正で明晰な作品を残した。


ムソルグスキーが無手勝流の荒々しいディオニュソス型だとすると、リムスキー=コルサコフは知的で洗練されたアポロン型だ。


リムスキー=コルサコフは、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」や「禿山の一夜」等の諸作品を、分かりやすく編曲し直し、その普及に貢献した。


また、モーリス・ラヴェル(1875年3月7日 - 1937年12月28日)の貢献も非常に重要。


彼もリムスキー=コルサコフと同じく(というかそれ以上に)知的で洗練されたアポロン型だ。


ムソルグスキーが残したピアノ組曲展覧会の絵」は、リムスキー=コルサコフによる「良識的」な改訂と、ラヴェルによる魔法の如きオーケストラ編曲を経て、超人気作へと生まれ変わった。


ディオニュソス型であるムソルグスキーの受容史において、アポロン型のリムスキー=コルサコフラヴェルが果たした功績は多大だ。


彼らの関係は、ビートルズに対するジョージ・マーティンラマヌジャンに対するハーディ、鳥山明に対する鳥嶋和彦を思い起こさせる。


ただ、最近では、ムソルグスキー本来の持ち味を評価すべきとする向きもある。


リムスキー=コルサコフラヴェルらによる「手直し」が、ムソルグスキー本来の独創性・野生味を損なっているということらしい。


原典版を積極的に取り上げる演奏家としては、指揮者のアバド、ピアニストのリヒテルなどがパイオニア・筆頭格として活躍した。


しかしながら、私個人としては、こうした受容史を情報としては知っていて尚、「手直し」版に心惹かれてしまう。


私はムソルグスキーの真価を全く理解できていないらしい。


・「禿山の一夜」(リムスキー=コルサコフ編曲版)

 

・「禿山の一夜」(原典版

 

・「展覧会の絵」(ラヴェル編曲版)

 

・「展覧会の絵」(原典版

札幌高裁【同性婚を認めない規定「違憲」】

高裁判決で「違憲」と言い切ったのは、これが初めてらしい。

最高裁違憲判決を出すのも時間の問題だろう。

家族法まわりでは、ここ数年、ポンポンと法令違憲判決が出ているような気がする。

非嫡出子の相続分規定違憲判決、再婚禁止期間の規定違憲判決……。

家族法まわりの憲法問題について、私の学生時代には、色々と小難しい議論がされていた気がする。

しかし、そんな議論も、今となっては完全に無駄になってしまった笑

「法的思考の訓練に役立った!」とも言い難い。

大したこともない、屁理屈みたいな議論だったし(当該学者の名誉のため、誰の何理論というのはここには書かないけども)。

学生時代の私の「神」

ジョジョの奇妙な冒険」の作者である荒木飛呂彦先生、

春の祭典」の作曲者であるイーゴリ・ストラヴィンスキー

そして、指揮者のアルトゥーロ・トスカニーニ

 

学生時代の私にとって、この三人は誇張でも何でもなく「神」であった。

当時の私の熱中・夢中ぶりは、若さのなせる忘我の崇拝そのものだった。

 

「神」ことトスカニーニが残した超名盤に、レスピーギ作曲のローマ三部作がある。

 

中でも私がよく聴いてしまうのは、「ローマの祭り」の終曲「主顕祭」だ。

ローマ三部作の中で、もっとも通俗的な(決して上品とは言い難い)「ローマの祭り」。

その中でも一際「はっちゃけた」「軽薄な」作品だ。

 

こうした作品の性格ゆえか、オーマンディのような例外を除いて、19世紀生まれの有名指揮者の殆どが「ローマの祭り」など一度も指揮していないと思う(バーンスタイン以降の世代が少しずつ取り上げるようになった)。

本来ならば、トスカニーニのような大巨匠指揮者が取り上げるようなレパートリーではない。

 

驚くべきことに、録音から70年以上経過した現在に至るまで、トスカニーニ盤を超える演奏は出てきていない。

 

圧倒的な音のエネルギー・鋭さ、カンタービレの豊かさ、絶妙なテンポ設定・変化、強烈なグルーヴ感……本当にとてつもない!!

 

演奏箇所をポイントごとに、つまり楽譜上の縦軸で、一瞬、一瞬を捉えて聴いてみると、決して完璧な演奏ではない。

むしろ、後進世代の演奏の方が、楽器同士のバランスに優れたものが多い。

しかしながら、横に流れる音楽として聴くと、完全にトスカニーニの圧勝なのである。

 

何度聴いても血湧き肉躍る、私に力を授けてくれる奇跡のような演奏だ。

ドラレコがあっても過失割合は争いになる

映像が残っている事案であっても、その評価を巡って、色んな人が色んな立場から様々な主張を展開します。

この映像を見て、皆さんは何をお感じになったでしょうか?

SNSなどで色んな人の意見もご覧になってみてください。

興味深いですよ。

映像化・自動化・AI化がいかに進んでも、人と人との間の議論・紛争が止むことはありません(白目)。

少なくとも向こう数十年は、法曹が「おまんま食い上げ」ということはなさそうです(遠い目)。

セクハラの判断基準を考察することの不毛さ

「何でもかんでも簡単にセクハラ認定されるなんておかしい!」

「職場で告白を再トライすることもセクハラ扱いされるなんて酷い!」

「イケメン(美人)が同じことしたら喜ぶのに、私がやったらセクハラ扱いだなんて理不尽だ!」

という男性諸氏(&一部の女性諸氏)。

 

弁護士の私が言うのもなんだが、これ、あまりにも不毛な議論ですよ。

 

「法的にセクハラに該当するか?」

なんてこと、気にする時点であなたの負けです。

 

相手にキモがられてしまったら、その時点で、その人との人間関係は破綻しかかってます。

 

「キモがられてしまった」ことが、法的にセクハラに該当しようがしまいが、もうあなたの負けなんです。

 

法的にどうこうじゃなくて、社会的にあなたは負けてるんですわ。

 

セクハラ該当性について議論・マジレスするのって、本当に不毛なんです。

たとえ「セクハラに該当しない」と論破できたところで、あなたがキモがられているという厳然たる事実は覆らないからです。

 

あなたが気にすべきことは、セクハラの判断基準なんかではありません。

何をしたらキモがられるのか、という当たり前の社会常識です。

他人の心の痛みに思いを馳せるという、ごく普通の共感力の問題です。

 

法的に勝てるかどうかじゃなくて、今後の人生を順風満帆にするためにも、キモがられない努力を優先すべきなのです。

馬鹿馬鹿しいほど当たり前すぎる話です。

 

ちなみに、世の中のごく一般的な性質の人々というのは、マジレス・議論をふっかけられること自体が「必死でキモい」と感じるようです。

キモがられやすい人は、大事な経験則として、よく覚えておくべきでしょう。