裁判所も「あえて脳死プレイ」をすることがある。
例えば、裁判所は、広範な立法裁量が認められる法令の憲法問題については、かなり緩やかな違憲審査基準を用いている。
緩やかな審査基準を使う場面では、文字通り「審査が緩やか」なので、判旨の内容は非常に簡潔で適当な感じになる。
昔からリベラル系の人たちは、こうした最高裁の判決文を見て
「裁判所は馬鹿だ!判決の内容はスカスカで全く説得力がない!」
などと怒ることがあった。
しかし、裁判所(特に最高裁の裁判官や調査官達)は無論「馬鹿」ではない。
裁判所は「あえて脳死プレイ」する場合であっても、「あえて脳死プレイ」すべき場面か否かの判断に関しては、かなり真剣に行っている。
そのうえで「あえてスカスカの判決文」を書いているのだ。
立憲主義国家において、憲法は、国民の権利を守るため、国家権力に制限を課す法規範としての性格を持っている(規制の名宛人は国民ではなく国家権力となっている)。
三権分立も、こうした発想に基づくシステムである。
権力は集中すると暴走する。
これを防ぐため、国家権力を立法・行政・司法の三権に分け、国民主権のもと、これら権力が暴走しないよう国民が監視するシステム(選挙制や裁判官の国民審査制等)を、憲法は構築したのだ。
裁判所も国家権力であり、暴走の危険がある。
裁判所には、民主的な裏付けが乏しく、少数のエリートによる独善がまかり通る恐れもある。
この前提を理解すると、裁判所の「脳死プレイ」の意義が見えてくる。
例えば、憲法問題の中でも、一部の経済政策については
「社会経済の実態についての正確な基礎資料が必要」であり、
「現実の社会経済にどのような影響を及ぼすか、その利害得失を洞察するとともに、広く社会経済政策全体との調和を考慮する等、相互に関連する諸条件についての適正な評価と判断が必要」となる(小売市場判決)。
こうした問題について、裁判所は適切な判断を下す能力が乏しく、三権分立の見地からも、「立法府の政策的技術的な裁量に委ねる」ことが適切だ(小売市場判決)。
そのため、広範な立法裁量に委ねるべき憲法問題については、「著しく不合理であることの明白である場合に限つて」違憲となる等の、非常に緩やかな審査基準が適用されるのだ。
緩やかな審査基準を適用する場面において、裁判所は「わざと大雑把・適当・簡単」に、合憲性の判断を行う。
「わざと大雑把・適当・簡単」に判断することが、「詳細・精密・複雑」に判断することよりも、むしろ正義にかなうという発想から、「あえて脳死プレイ」を選択しているのである!
憲法判断において、裁判官の暴走を防ぐため、裁判官が勝手気ままに自由に考えることを止めるため、「裁判官が自身の思考を制限し規律するためのツール」として、違憲審査基準は機能していたのだ(そしてこれは他ならぬ憲法の要請なのだ)!
学生時代、憲法を勉強する中でこのことに気が付いたとき、私は「雷に打たれる」ような衝撃を受けたものだ。
殆どの法学部生は、きっとよく理解していないはずだ。
このブログ記事を読んだ極めて少数かつ酔狂な方は、非常にラッキーである。
あなたの憲法(の本質に対する)理解度は、法学部生全体の上位5%には入るはずだ。