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空想怪事件簿File No.1【スマリヤンのパラドックス】

【事案の概要】
A、B、Cの3人のグループが砂漠をさまよっている。
あるところで、3人はそれぞれ別の道を歩いていくことにした。
Aは、Cのことを恨んでおり、殺意を抱いていた。
別れる前の晩、AはCの水筒にこっそり毒を入れた。
無味無臭で、一口でも飲めば即死確実の強力な毒である。
一方、BもCのことを恨んでおり、殺意を抱いていた。
Bは、Cが砂漠の真ん中で水を飲めなくなって死ぬよう、Cの水筒の中身を全て捨て去ってしまった。
このとき、Bは、AがCの水筒に毒を入れていたことなど知らなかった。
3人が別れたあと、しばらくして、Cは水筒の中身が空になっていることに気が付いた。
やがてCは脱水に伴う循環不全等により死亡した。

アメリカの論理学者レイモンド・スマリヤン氏が考案した事例を若干改変した)

【問題】
AとBはいかなる罪責を負うか?(殺人罪が成立するか?器物損壊罪の成否は考慮しないものとする。)
AはCに毒を飲ませようとしたものの、Cは服毒することなく、脱水で死亡している。
他方、Bは、自身の意図通り、Cを脱水により死亡させることに成功したものの、Cの服毒を防ぎ、Cを延命させたともいえる(本来、Cは即死確実の毒を盛られていたのだから、Bが水筒の中身を捨て去っていなければ、服毒により早々に死亡していたはずだった)。
この問題、あなたならどう考えるか?

【検討】
・前提
殺人罪が成立するためには、殺意の他に以下の①~③の構成要件を充足する必要がある。
①実行行為:殺人の実行行為(人の死を招く現実的危険のある行為)
②結果:人の死
③因果関係:①と②との間の因果関係

①だけ又は①と②だけ充足する場合は、殺人未遂罪が成立する。
①を充足しなければ、殺人罪は勿論のこと、殺人未遂罪も成立しない。

・Aについて
①実行行為
「Cの水筒にこっそり毒を入れた」行為は、殺人の実行行為に該当する。
他に飲み水を入手できない砂漠において、Cが水筒の水を飲もうと試みることは確実な状況であったことから、上記行為は「人(C)の死を招く現実的危険のある行為」であったといえる。

②結果
「Cは脱水に伴う循環不全等により死亡」しており、「人(C)の死」という結果が発生している。

③因果関係
「Cの水筒にこっそり毒を入れた」行為が原因となって「Cは脱水に伴う循環不全等により死亡」したわけではない。
また、「Cの水筒にこっそり毒を入れた」行為が原因となってBが「Cの水筒の中身を全て捨て」たわけではない。
「あれ(実行行為)なければ、これ(結果)なし」という条件関係がなく、実行行為と結果との間に因果関係はない。

したがって、Aには殺人未遂罪が成立するにとどまる。

・Bについて
問題はBである。

実行行為という概念をどう理解するかによって、Bの命運は大きく変わる。
具体的には、「Cの水筒の中身を全て捨て」るという行為を評価する(殺人の実行行為といえるか否かを判断する)にあたり、Aが毒を混入させていたという事情を考慮すべきか否かが問題となる。

日本の(裁)判例が実行行為という概念をどう理解しているかという問題について、実務家や学者の解釈は必ずしも一致していない。

本件を強いて講学上の概念に引き寄せて考察するならば、所謂「方法の不能」とパラレルに考えることができる。

「方法の不能」とは、例えば、銃弾の装填されていない拳銃を人に向けて撃つ行為(犯行の方法に不備等があるために人を死傷させることが不可能な場合)について、殺人や傷害の実行行為と評価すべきか否かという論点である。
本件においては、毒液を捨て去る行為は人の脱水死を招くことにはならないと考えることができるので、「方法の不能」の論点が参考になる。

「方法の不能」の事案において、(裁)判例は、行為の現実的危険性を評価するにあたり、客観的事情をかなり詳細に考慮に入れる傾向がある(「全て」ではなく「かなり」というのがポイント。厳密に全ての客観的事情を考慮してしまうと、結果が発生しなかった事案では、およそ全てが不能犯(犯罪不成立)となり、未遂犯の成立というものが全く想定できなくなってしまうからである。)。

このような(裁)判例の立場を前提とするならば((裁)判例の立場をそのように理解・解釈するならば)、「Cの水筒の中身を全て捨て」るという行為の評価にあたっては、Aが毒を混入させていたという事情を考慮すべきこととなる。
この理解によれば、Bの行為は「毒液を捨て去る」行為に他ならず、「脱水に伴う循環不全等による人の死」を招く現実的危険はない(そもそもCの手元には安全な飲み水がない状態だったのであるから、BのせいでCが脱水死の危険に晒されたことにはならない)。
したがって、実行行為の着手すらなく、犯罪不成立ということになる。

他方、実行行為という概念の理解において、行為者本人の主観面や社会通念(一般人の観点から危険と評価すべきか)を重視する立場もある(行為無価値の立場と親和性あり。(裁)判例の立場をこのように理解する実務家は多い。)。
この理解によれば、「Cの水筒の中身を全て捨て」るという行為の評価にあたり、Aが毒を混入させていたという事情は考慮すべきでないということになる(BはAが毒を混入させていたことなど知らなかったのであり、また、一般人の感覚からすれば「実は水筒に毒が混入されていた」という異常な事態は想定し難いことであるから、このような事態を考慮に入れるべきでないということになる)。
Bの行為は「飲み水を入手できない砂漠において、Cが所持していた唯一の飲み水を捨て去る」行為に他ならず、「脱水に伴う循環不全等による人の死」を招く現実的危険を有するものと評価される。
この理解によれば、実行行為と結果との間の因果関係も認められることになるため、Bには殺人罪が成立することになる。

しかし、本件に関しては、一般的な「方法の不能」の議論とは区別して考えるべきであろう。
本件では、Bが被害者Cの死期を遅らせた(延命した)と評価できるという非常に特殊な事情があるからだ(空砲を人に向けて撃つ行為などとはこの点で大きく異なる)。
毒を捨て去るという延命行為について、殺人罪が成立するというのは、いかにも奇妙・不合理である。
客観的に見るならば、BはAによる毒殺を防いだものといえるのに、Aには殺人未遂罪が成立するにとどまり、Bには殺人罪が成立するというのは、処罰の均衡を失していると言わざるをえまい。

したがって、行為無価値的な立場においても(何らかの理論修正により)、本件のBに関しては犯罪不成立とする可能性が高い(と予想される)。

【結論】
Aの罪責:殺人未遂罪(刑法199条、203条)
Bの罪責:犯罪不成立

【応用問題】
Bが、水筒の中身を捨てたのではなく、強力な毒を混入させた(Aの毒と違い、色や臭いが強烈な毒である)とする。
別れた後、Cは、水筒の中身を飲もうとしたものの、色や臭いの強烈さから毒の混入に気が付いたため、これを飲まずに脱水に伴う循環不全等により死亡した。
この場合、AとBはいかなる罪責を負うか?

水筒の中身を捨てたケースよりも更に厄介な難問である。
あなたならどう考えるだろうか?

私の考えを簡単に書くと、Aは殺人未遂罪、Bは殺人罪となる。

まず、Aについて、無味無臭の毒を混入させるという実行行為は、Cの脱水死の原因にはなっておらず、Bによる毒の混入という介在事情を引き起こす原因にもなっていない。
実行行為とCの死という結果との間に因果関係がなく、殺人未遂罪が成立するにとどまる。

今回も厄介なのはBである。
Cの死期を遅らせたと評価し得る点をどう考えるべきだろうか。
今回のBは、前のケースのような「必然的に延命につながる行為(水筒の中身を飲めない、飲みようがない状態にする行為)」に及んだわけではない。
すなわち、水筒の中身を空にしたケースと異なり、Bによる毒の混入という行為には、Cが服毒死する現実的危険性があるといえる(Cが水筒の中身を飲むということもあり得た)。
今回の場合、Bによる毒の混入は殺人の実行行為と評価すべきである(客観的状況を重視する立場からも、行為無価値的な立場からも、同様の帰結と思われる)。
また、Bが混入させた毒の色と臭いが強烈であったことから、Cが水筒の中身を飲まずに脱水死するという経過を辿ることも、Bの実行行為から通常想定される因果経過といえる。
したがって、Bには殺人罪が成立する。

なお、講学上の論点との関係も簡単に触れると、本件は所謂「択一的競合」には当たらない。
Cの現実の死因は脱水であり、「あれ(Bの実行行為)なければ、これ(Cの脱水死)なし」と考えて差し支えないからである。