弁護士の団堂八蜜です。
4月19日(金)、クラフトワークの来曰公演を観て参りました。
いやはやカッコ良かった!!
生の「ロボット」達を初めて見られて、この団堂、至福の一時を過ごせました。
重低音が凄く、座席や会場の扉も共鳴しておりましたよ!
ヒュッターが申し訳程度に右足でリズムをとってるの、可愛らしかったですね。
彼らの魅力って一体何なんでしょうか?
考えてみたんですが
一言で言えば「冷たく乾いたポエジー」ということになると思うんです。
情感たっぷりに熱っぽく何かを歌い上げるとか、叙情的なメロディだとか、そういうウェットな切り口とは全く無縁。
多分ビブラートも一切出てこないですよね、全作通して。
私が気付いていないだけかもしれませんけど。
直情的な表現手法というのをあえて避けているということだと思います。
サウンドも世界観も無表情で冷め切ってるんだけど、あふれ出てくる何とも言えない詩情、美感。
それこそが彼らの魅力だと思います。
これって新古典主義時代以降のストラヴィンスキーや、作曲家として最盛期にあった頃のブーレーズとスタンスが似ている感じがします。
ストラヴィンスキーは「音楽は音楽以外の何物も表現しない」と言って憚りませんでしたし、叙情的な表現というものをひどく嫌っていました。
(もっとも、この態度自体は、新古典主義以降のストラヴィンスキー流の一種のキャラ付け・プロパガンダという意味もあったと思います。本当に叙情嫌いの人間であれば、「幻想的スケルツォ」や「ペトルーシュカ」の感傷的な世界は描けなかったはずですから。)
ブーレーズも基本的には同様の立場だったのだと思います。
音楽から感情の締め出しを徹底した。
かつての彼は、音楽の理性的な進化というものを本気で信じ目指していたと思う。
これについては、彼が青年期に終戦を迎えた世代であり、ナチズムに代表される情念的、感情的なるものに対する強い嫌悪感があったのではないか、そのことも影響したのではないかと推察します。
ただ、前衛が栄華を極めた時代も今は昔(そもそもそんな時代など無かったのかもしれませんが)。
もはや保護活動を要する絶滅危惧種になってしまいました。
前衛三羽烏も全員鬼籍に入りました(ブーレーズ (1925年3月26日 - 2016年1月5日)、シュトックハウゼン(1928年8月22日 - 2007年12月5日)、ノーノ(1924年1月29日 - 1990年5月8日))。
今やブーレーズだって、現代音楽を愛でる怪しい人達からは「古典」扱いされ、「古き良き前衛時代のヒーロー」として、歴史的対象になりつつあります。
ですから、今更こんな話題をしても、50年くらい時代遅れかもしれない。
でもあえて主張したい。
ブーレーズって、クラフトワークみたいなテクノアーティスト風の売り方したほうが良かったんでないか?
一般人にはよくわからない、ぶっ飛んだ世界観というのをメチャメチャに強調しちゃって。
宇宙や未来の謎の超難解な音楽を作り、演奏する自称「ロボット」。
面食らいながらも、虚心坦懐によくよく聴くと、そこには冷たく乾いた煌びやかな美的世界の万華鏡が広がっている。
あれ?すごくテクノミュージシャンっぽい。
ブーレーズってグラサンかけて指揮してる映像ありますよね。
あと指揮するとき終始無表情、仏頂面ですよね。
ほら、その方向性ですよ。
あとちょっと。
ブーレーズが「私はロボット」、「未来から来ました」、「宇宙人です」とか主張しながら、メカニカルなパフォーマンス、指揮なんかしたら、もっと色んな層を取り込めたんじゃないかしら。
前衛音楽界全体が、その方向で行くべきだったんじゃないかしら。
なまじ真面目で地味〜な感じで行っちゃったから、70年代には早くも袋小路に入ってしまったのではないか。
同業者や学者向けの売り込みと、我々一般聴衆向けの売り込みとで、戦略を変えた方が、普及度合いも寿命もまた違ってきたんじゃなかろうか。
まぁ前衛音楽なんてもうほぼ滅んじゃったし、今更考えたって遅いことしきりなんですけどね。
※この連載はフィクションです。実在の人物、団体及び事件等とは何ら関係がありません。